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    <title>関ヶ原の残党、石田世一（久富利行）の文学館</title>
    <link>https://ishi1600hisa.seesaa.net/</link>
    <description>２００７年４月に始めた拙ブログですが、このたび引っ越しました。　今まで通り、石田三成の実像をはじめ、文学探訪、旅行記、京都探訪、大阪探訪、自作小説、自作短歌の周辺など多岐にわたる記事を掲載していくつもりです。</description>
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    <itunes:summary>２００７年４月に始めた拙ブログですが、このたび引っ越しました。 　今まで通り、石田三成の実像をはじめ、文学探訪、旅行記、京都探訪、大阪探訪、自作小説、自作短歌の周辺など多岐にわたる記事を掲載していくつもりです。</itunes:summary>
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    <itunes:author>石田世一</itunes:author>
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      <title>短歌会の会誌１５０号の打ち合わせを天理で行う・共同代表は今年で勇退・継承者の不在・６８年の重み</title>
      <pubDate>Sat, 07 Mar 2026 21:59:40 +0900</pubDate>
            <description>　巻雲短歌会の会誌「巻雲」の１５０号発行についての打ち合わせをするため、天理まで出向きました。共同代表の三嶋さんにタクシーで駅前まで出てきてもらって、駅前の「テン・テン・カフェ」で昼食を取った後、じっくり話し合いました。８２才の三嶋氏は今号発行で勇退されるので、その後どうするのかは、会員の皆様の意向を訊いた上で決めることになります。京北の会員は、５・６名の規模ですが、毎月歌会を持ち続けていて、もしその人たちが今後も面倒を見てほしいということであれば、引き受けねばならないと思っ..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
<a href="https://ishi1600hisa.up.seesaa.net/image/DSCF0701_5020.JPG" target="_blank"><img border="0" alt="DSCF0701_5020.JPG" src="https://ishi1600hisa.up.seesaa.net/image/DSCF0701_5020-thumbnail2.JPG" width="640" height="480"></a><a href="https://ishi1600hisa.up.seesaa.net/image/DSCF0707_5026.JPG" target="_blank"><img border="0" alt="DSCF0707_5026.JPG" src="https://ishi1600hisa.up.seesaa.net/image/DSCF0707_5026-thumbnail2.JPG" width="640" height="480"></a><a href="https://ishi1600hisa.up.seesaa.net/image/DSCF0705_5024.JPG" target="_blank"><img border="0" alt="DSCF0705_5024.JPG" src="https://ishi1600hisa.up.seesaa.net/image/DSCF0705_5024-thumbnail2.JPG" width="640" height="480"></a>
　巻雲短歌会の会誌「巻雲」の１５０号発行についての打ち合わせをするため、天理まで出向きました。共同代表の三嶋さんにタクシーで駅前まで出てきてもらって、駅前の「テン・テン・カフェ」で昼食を取った後、じっくり話し合いました。８２才の三嶋氏は今号発行で勇退されるので、その後どうするのかは、会員の皆様の意向を訊いた上で決めることになります。京北の会員は、５・６名の規模ですが、毎月歌会を持ち続けていて、もしその人たちが今後も面倒を見てほしいということであれば、引き受けねばならないと思っています。ただ、私もまもなく後期高齢者になるので、いつまで続けられるのかはわかりません。ドラマ「京都人の密かな愉しみ」では、店や技術の継承が大きなテーマになっていますが、巻雲短歌会は継承者がおらず、いずれ閉会・解散するしかありません。
　二代目の主宰であった植村紀子先生が逝去され、共同代表体制で、年に一度「巻雲」を発行し、今年で８年目になりますが、その体制も今年限りです。国文科の名誉教授だった三嶋さんと一緒だったので、私自身、いろいろと教えられ助かってきた面があり、感謝の念しかありません。
　巻雲短歌会も創設以来今年で５８年を数え、その重みがひしひしと肩にかかる思いです。
　
<a></a>

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      <content:encoded><![CDATA[
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]]></content:encoded>
            <category>＃巻雲短歌会</category>
      <author>石田世一</author>
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                </item>
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      <link>https://ishi1600hisa.seesaa.net/article/520144016.html</link>
      <title>大河ドラマ探訪４８４　「豊臣兄弟！」１０　墨俣一夜城築城をめぐって５　坂東肇氏「大垣の城館めぐり」５　「太閤記」の記述内容２</title>
      <pubDate>Sat, 07 Mar 2026 13:19:05 +0900</pubDate>
            <description>　大河ドラマ「豊臣兄弟！」の中で、秀吉は信長に向かって、墨俣の砦を作るのに、木曽で材木を切り出し、松倉城まで運んでできるだけ組み立てやすい形にしてから、川経由で墨俣に運べば、１週間でできると言っていました。こういう経緯は、「太閤記」の記述内容を参考にしているものと思われます。　　 　　　　坂東肇氏の「大垣の城館めぐり」の中で、「太閤記」の記述内容が紹介されていますが、拙ブログで前述したように、「永禄９年７月５日に長屋、櫓、塀、柵木などを８月２０日までに準備するよう命じられた」..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
　大河ドラマ「豊臣兄弟！」の中で、秀吉は信長に向かって、墨俣の砦を作るのに、木曽で材木を切り出し、松倉城まで運んでできるだけ組み立てやすい形にしてから、川経由で墨俣に運べば、１週間でできると言っていました。こういう経緯は、「太閤記」の記述内容を参考にしているものと思われます。　　 　　　
　坂東肇氏の「大垣の城館めぐり」の中で、「太閤記」の記述内容が紹介されていますが、拙ブログで前述したように、「永禄９年７月５日に長屋、櫓、塀、柵木などを８月２０日までに準備するよう命じられた」と記されており、その後に次のように続きます。
「９月１日には木曽川左岸北方渡付近ので、城を造るための資材を筏に組んだ。
９月４日に小牧山に兵が集められ、５日の未明には、美濃方へと渡り、柵を造ることから築城を始めた。敵を防ぎつつ築城を進めなければならないが、敵は休みなく攻撃をして、井口からも８０００余騎の軍勢が次々と送られてきた。（中略）
　７日か８日には、城の大部分が出来てきた。堀を深くし櫓を建てて、夜になって壁などを塗り立てた。
　遅れていた堀普請も急ぎ、ほどなくして完成したので、武具、兵粮等の備えをした。藤吉郎は総勢３０００人の兵でこの砦を守った」と。
　「太閤記」では、準備期間を含めて２ヶ月余りかかっていますから、「豊臣兄弟！」では、さらにそれを短縮し、秀吉のアイデアがさらに強調されているような印象を受けます。
　むろん、「太閤記」の記述内容がどれだけ事実を含んでいるのかわかりませんし、相当尾ひれがついているのではないかという気がします。坂東氏も、「当然軍記物なので、読者を引き付けるための誇張や新たな創作も多い」と指摘されています。
　墨俣一夜城の話と北条攻めの際の石垣山一夜城の話とは築城の方法は違うものの、共通する部分が多く、創作じみたものを感じます。

　<a></a>

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      <content:encoded><![CDATA[
　大河ドラマ「豊臣兄弟！」の中で、秀吉は信長に向かって、墨俣の砦を作るのに、木曽で材木を切り出し、松倉城まで運んでできるだけ組み立てやすい形にしてから、川経由で墨俣に運べば、１週間でできると言っていました。こういう経緯は、「太閤記」の記述内容を参考にしているものと思われます。　　 　　　<br />　坂東肇氏の「大垣の城館めぐり」の中で、「太閤記」の記述内容が紹介されていますが、拙ブログで前述したように、「永禄９年７月５日に長屋、櫓、塀、柵木などを８月２０日までに準備するよう命じられた」と記されており、その後に次のように続きます。<br />「９月１日には木曽川左岸北方渡付近ので、城を造るための資材を筏に組んだ。<br />９月４日に小牧山に兵が集められ、５日の未明には、美濃方へと渡り、柵を造ることから築城を始めた。敵を防ぎつつ築城を進めなければならないが、敵は休みなく攻撃をして、井口からも８０００余騎の軍勢が次々と送られてきた。（中略）<br />　７日か８日には、城の大部分が出来てきた。堀を深くし櫓を建てて、夜になって壁などを塗り立てた。<br />　遅れていた堀普請も急ぎ、ほどなくして完成したので、武具、兵粮等の備えをした。藤吉郎は総勢３０００人の兵でこの砦を守った」と。<br />　「太閤記」では、準備期間を含めて２ヶ月余りかかっていますから、「豊臣兄弟！」では、さらにそれを短縮し、秀吉のアイデアがさらに強調されているような印象を受けます。<br />　むろん、「太閤記」の記述内容がどれだけ事実を含んでいるのかわかりませんし、相当尾ひれがついているのではないかという気がします。坂東氏も、「当然軍記物なので、読者を引き付けるための誇張や新たな創作も多い」と指摘されています。<br />　墨俣一夜城の話と北条攻めの際の石垣山一夜城の話とは築城の方法は違うものの、共通する部分が多く、創作じみたものを感じます。<br /><br />　<a name="more"></a>

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]]></content:encoded>
            <category>＃大河ドラマ探訪</category>
      <author>石田世一</author>
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                </item>
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      <link>https://ishi1600hisa.seesaa.net/article/520138480.html</link>
      <title>心筋シートも正式承認・「中之島クロス」の万博レガシーの展示２</title>
      <pubDate>Sat, 07 Mar 2026 01:36:30 +0900</pubDate>
            <description>　iPS細胞を使った２製品が正式承認されました。大阪大学とベンチャー企業が開発した心筋シートもその一つですが、昨年の万博の大阪ヘルスケアパビリオンに展示され、先日、「中之島クロス」で万博レガシーであるその説明パネルを改めて見ただけに、感慨深いものがあります。そのパネルの「iPS細胞を使った治療に向けた取り組み」の中に、今回製品が正式承認された「パーキンソン病」も「重症右心不全」も含まれています。パネルには「２０ＸＸ年　自分の細胞で自分が治療する時代がやって来る」とも記されてい..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
　iPS細胞を使った２製品が正式承認されました。大阪大学とベンチャー企業が開発した心筋シートもその一つですが、昨年の万博の大阪ヘルスケアパビリオンに展示され、先日、「中之島クロス」で万博レガシーであるその説明パネルを改めて見ただけに、感慨深いものがあります。そのパネルの「iPS細胞を使った治療に向けた取り組み」の中に、今回製品が正式承認された「パーキンソン病」も「重症右心不全」も含まれています。パネルには「２０ＸＸ年　自分の細胞で自分が治療する時代がやって来る」とも記されていますが、早くそういう時代が来ることを願ってやみません。iPS細胞を作製した京大の山中教授の功績の大きさに感じ入ります。
　それにしても、医学の進歩には驚かされます。私が受けた白内障の手術も随分変わりました。４０数年前には、眼内レンズがありませんでしたから、水晶体の代わりにコンタクトレンズを装着するか分厚い眼鏡をかけるかする必要がありました。手術も簡単になりましたし、時間も短縮されました。
　緑内障も当時は手術しかなく、術後は相当痛むらしく、深夜絶対安静だというのに、痛みに耐えかねて起き上がり暴れた学生がいたほどです。今は進行をとめる薬もあり、レーザー治療もあるので、手術はそれらが駄目な場合に限られているのではないでしょうか。
　網膜剥離の手術も当時は大変でしたが、今はレーザー治療もありますし、その時と比べればある程度楽なものになっているのではないでしょうか。<a></a>

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      <content:encoded><![CDATA[
　iPS細胞を使った２製品が正式承認されました。大阪大学とベンチャー企業が開発した心筋シートもその一つですが、昨年の万博の大阪ヘルスケアパビリオンに展示され、先日、「中之島クロス」で万博レガシーであるその説明パネルを改めて見ただけに、感慨深いものがあります。そのパネルの「iPS細胞を使った治療に向けた取り組み」の中に、今回製品が正式承認された「パーキンソン病」も「重症右心不全」も含まれています。パネルには「２０ＸＸ年　自分の細胞で自分が治療する時代がやって来る」とも記されていますが、早くそういう時代が来ることを願ってやみません。iPS細胞を作製した京大の山中教授の功績の大きさに感じ入ります。<br />　それにしても、医学の進歩には驚かされます。私が受けた白内障の手術も随分変わりました。４０数年前には、眼内レンズがありませんでしたから、水晶体の代わりにコンタクトレンズを装着するか分厚い眼鏡をかけるかする必要がありました。手術も簡単になりましたし、時間も短縮されました。<br />　緑内障も当時は手術しかなく、術後は相当痛むらしく、深夜絶対安静だというのに、痛みに耐えかねて起き上がり暴れた学生がいたほどです。今は進行をとめる薬もあり、レーザー治療もあるので、手術はそれらが駄目な場合に限られているのではないでしょうか。<br />　網膜剥離の手術も当時は大変でしたが、今はレーザー治療もありますし、その時と比べればある程度楽なものになっているのではないでしょうか。<a name="more"></a>

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            <category>＃万博</category>
      <author>石田世一</author>
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                </item>
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      <link>https://ishi1600hisa.seesaa.net/article/520126958.html</link>
      <title>石田三成の実像 ４１７１　白峰旬氏「『秀頼様』という表記についてープリンスとしての豊臣秀頼ー」３３　増田長盛が政権の最高級メンバーであったことを示す単独書状</title>
      <pubDate>Fri, 06 Mar 2026 17:43:12 +0900</pubDate>
            <description>白峰旬氏の「『秀頼様』という表記についてープリンスとしての豊臣秀頼ー」の中で、拙ブログで前述したように、三成と増田長盛について、次のような指摘がされています。　「秀吉の死去後、豊臣王朝の王（＝山本論文の理論による）である秀頼が、当該期の豊臣公儀の新しいカリスマである『秀頼様』となり、石田三成と増田長盛は、政権の最高級メンバーである『取次』（『秀頼様』の『取次』）として独自の地位を保持したと見なすことができる」と。　白峰氏はさらに次のように考察を続けられています。　「このように..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
白峰旬氏の「『秀頼様』という表記についてープリンスとしての豊臣秀頼ー」の中で、拙ブログで前述したように、三成と増田長盛について、次のような指摘がされています。
　「秀吉の死去後、豊臣王朝の王（＝山本論文の理論による）である秀頼が、当該期の豊臣公儀の新しいカリスマである『秀頼様』となり、石田三成と増田長盛は、政権の最高級メンバーである『取次』（『秀頼様』の『取次』）として独自の地位を保持したと見なすことができる」と。
　白峰氏はさらに次のように考察を続けられています。
　「このように考えると、増田長盛が松井康之に対して単独で書状を出して『なにの情に妻子を捨、大（ママ）閤様之被忘御恩、　秀頼様へ之逆意可有之候哉、御分別尤候』（『（慶長５年）８ 月１４ 日付松井康之宛増田長盛書状』）として、『大（ママ）閤様』（＝豊臣秀吉）の『御恩』を忘れて、『秀頼様』（＝豊臣秀頼）への『逆意』にならないように命じていることは、当該期の豊臣公儀の大名統制のロジックそのものであり、『取次』」である増田長盛の地位の高さを明確に示している」と。
　松井康之は、細川忠興の領地の飛び地である木付城の城代ですが、その松井に対して、長盛がひとりで「秀頼様」に背かないように命令できるということは、長盛にそれだけの権限が与えられていることがわかります。慶長４年閏３月に三成が訴訟騒動(従来は七将による石田三成襲撃事件とされてきましたが、水野伍貴氏や白峰氏によって否定されています)の責任を取らされ奉行職を解かれ、その後、家康が伏見城、そして大坂城に乗り込んで専横を極めますが、長盛ら三奉行の了解を取り付けています。家康が会津攻めを強行した時も、三奉行は反対したものの、形の上では一応三奉行の了解を取り付け、豊臣家から軍資金が支給されています。家康は豊臣公儀のもと、まず前田利長に圧力をかけて屈服させ、ついで上杉景勝をねじ伏せるべく豊臣公儀軍を動員します。豊臣公儀の名を借りた方が、諸大名に対して言うことを聞かしやすいと思ったからでしょうし、そうすることで着々と地固めをし天下人への道を歩んでゆこうとしたのではないでしょうか。この時期、秀頼に弓引くことは避けたかったと思われますし、そのためには長盛をはじめとする三奉行を取り込んでおく必要があったのでしょう。
　白峰氏は三成についても言及されていますが、それについては後述します。

　<a></a>

]]></itunes:summary>
      <content:encoded><![CDATA[
白峰旬氏の「『秀頼様』という表記についてープリンスとしての豊臣秀頼ー」の中で、拙ブログで前述したように、三成と増田長盛について、次のような指摘がされています。<br />　「秀吉の死去後、豊臣王朝の王（＝山本論文の理論による）である秀頼が、当該期の豊臣公儀の新しいカリスマである『秀頼様』となり、石田三成と増田長盛は、政権の最高級メンバーである『取次』（『秀頼様』の『取次』）として独自の地位を保持したと見なすことができる」と。<br />　白峰氏はさらに次のように考察を続けられています。<br />　「このように考えると、増田長盛が松井康之に対して単独で書状を出して『なにの情に妻子を捨、大（ママ）閤様之被忘御恩、　秀頼様へ之逆意可有之候哉、御分別尤候』（『（慶長５年）８ 月１４ 日付松井康之宛増田長盛書状』）として、『大（ママ）閤様』（＝豊臣秀吉）の『御恩』を忘れて、『秀頼様』（＝豊臣秀頼）への『逆意』にならないように命じていることは、当該期の豊臣公儀の大名統制のロジックそのものであり、『取次』」である増田長盛の地位の高さを明確に示している」と。<br />　松井康之は、細川忠興の領地の飛び地である木付城の城代ですが、その松井に対して、長盛がひとりで「秀頼様」に背かないように命令できるということは、長盛にそれだけの権限が与えられていることがわかります。慶長４年閏３月に三成が訴訟騒動(従来は七将による石田三成襲撃事件とされてきましたが、水野伍貴氏や白峰氏によって否定されています)の責任を取らされ奉行職を解かれ、その後、家康が伏見城、そして大坂城に乗り込んで専横を極めますが、長盛ら三奉行の了解を取り付けています。家康が会津攻めを強行した時も、三奉行は反対したものの、形の上では一応三奉行の了解を取り付け、豊臣家から軍資金が支給されています。家康は豊臣公儀のもと、まず前田利長に圧力をかけて屈服させ、ついで上杉景勝をねじ伏せるべく豊臣公儀軍を動員します。豊臣公儀の名を借りた方が、諸大名に対して言うことを聞かしやすいと思ったからでしょうし、そうすることで着々と地固めをし天下人への道を歩んでゆこうとしたのではないでしょうか。この時期、秀頼に弓引くことは避けたかったと思われますし、そのためには長盛をはじめとする三奉行を取り込んでおく必要があったのでしょう。<br />　白峰氏は三成についても言及されていますが、それについては後述します。<br /><br />　<a name="more"></a>

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            <category>＃石田三成</category>
      <author>石田世一</author>
      <guid isPermaLink="false">blog:https://blog.seesaa.jp,ishi1600hisa/520126958</guid>
                </item>
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      <link>https://ishi1600hisa.seesaa.net/article/520130593.html</link>
      <title>「アイヌの美ー彩りと輝き」展１　味わい深くバリエーション豊かなアイヌ文様　</title>
      <pubDate>Fri, 06 Mar 2026 00:28:26 +0900</pubDate>
            <description>　京都文化博物館で開催されている「アイヌの美ー彩りと輝き」展を妻と見に行きました。日本の先住民族であるアイヌの衣服、帯、首飾り、儀礼用の太刀や漆器、煙草入れなどさまざまなものが展示されていました。刺繍家のチカップ美恵子さんの作品も多数ありましたが、やはりアイヌ文様が独特でインパクトが強く味わい深く、バリエーションにも富んでいました。　娘は「ゴールデンカムイ」が好きで特にアイヌの少女アシリパが時に気に入っています。先日、テレビで放送されていた実写版の映画を一緒に見て、初めてその..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
<a href="https://ishi1600hisa.up.seesaa.net/image/DSCF0615_4934.JPG" target="_blank"><img border="0" alt="DSCF0615_4934.JPG" src="https://ishi1600hisa.up.seesaa.net/image/DSCF0615_4934-thumbnail2.JPG" width="480" height="640"></a><a href="https://ishi1600hisa.up.seesaa.net/image/DSCF0621_4940.JPG" target="_blank"><img border="0" alt="DSCF0621_4940.JPG" src="https://ishi1600hisa.up.seesaa.net/image/DSCF0621_4940-thumbnail2.JPG" width="640" height="480"></a><a href="https://ishi1600hisa.up.seesaa.net/image/DSCF0656_4975.JPG" target="_blank"><img border="0" alt="DSCF0656_4975.JPG" src="https://ishi1600hisa.up.seesaa.net/image/DSCF0656_4975-thumbnail2.JPG" width="480" height="640"></a><a href="https://ishi1600hisa.up.seesaa.net/image/DSCF0635_4954.JPG" target="_blank"><img border="0" alt="DSCF0635_4954.JPG" src="https://ishi1600hisa.up.seesaa.net/image/DSCF0635_4954-thumbnail2.JPG" width="640" height="480"></a>
　京都文化博物館で開催されている「アイヌの美ー彩りと輝き」展を妻と見に行きました。日本の先住民族であるアイヌの衣服、帯、首飾り、儀礼用の太刀や漆器、煙草入れなどさまざまなものが展示されていました。刺繍家のチカップ美恵子さんの作品も多数ありましたが、やはりアイヌ文様が独特でインパクトが強く味わい深く、バリエーションにも富んでいました。
　娘は「ゴールデンカムイ」が好きで特にアイヌの少女アシリパが時に気に入っています。先日、テレビで放送されていた実写版の映画を一緒に見て、初めてその詳しい内容を知りました。アイヌの風習や文化がよく描かれており、確かにこの作品によってアイヌに興味関心を持った人が増えたに違いありません。
　アイヌ民族は日本人に迫害されて住む地域もどんどん狭められてきたという歴史があります。それはアメリカにおけるネイティブ・アメリカンの人々が差別を受け追いやられていったということと重なります。他の国でも同様の歴史があったのかもしれません。
　私がアイヌにとりわけ関心を持ったのは、梅原猛さん・埴原和郎さんの「アイヌ人は原日本人か」を読んで以来です。日本人の原点みたいなものが、アイヌ人にはあるのではないかと思ったものです。
　北海道庁旧本庁舎に、アイヌコーナーがありましたが、今回の展覧会はずっと規模が大きく、見応えがあり、アイヌ文化の一端に触れることができました。
　
<a></a>

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      <content:encoded><![CDATA[
<a href="https://ishi1600hisa.up.seesaa.net/image/DSCF0615_4934.JPG" target="_blank"><img border="0" alt="DSCF0615_4934.JPG" src="https://ishi1600hisa.up.seesaa.net/image/DSCF0615_4934-thumbnail2.JPG" width="480" height="640" onclick="location.href = 'https://ishi1600hisa.seesaa.net/upload/detail/image/DSCF0615_4934-thumbnail2.JPG.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><a href="https://ishi1600hisa.up.seesaa.net/image/DSCF0621_4940.JPG" target="_blank"><img border="0" alt="DSCF0621_4940.JPG" src="https://ishi1600hisa.up.seesaa.net/image/DSCF0621_4940-thumbnail2.JPG" width="640" height="480" onclick="location.href = 'https://ishi1600hisa.seesaa.net/upload/detail/image/DSCF0621_4940-thumbnail2.JPG.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><a href="https://ishi1600hisa.up.seesaa.net/image/DSCF0656_4975.JPG" target="_blank"><img border="0" alt="DSCF0656_4975.JPG" src="https://ishi1600hisa.up.seesaa.net/image/DSCF0656_4975-thumbnail2.JPG" width="480" height="640" onclick="location.href = 'https://ishi1600hisa.seesaa.net/upload/detail/image/DSCF0656_4975-thumbnail2.JPG.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><a href="https://ishi1600hisa.up.seesaa.net/image/DSCF0635_4954.JPG" target="_blank"><img border="0" alt="DSCF0635_4954.JPG" src="https://ishi1600hisa.up.seesaa.net/image/DSCF0635_4954-thumbnail2.JPG" width="640" height="480" onclick="location.href = 'https://ishi1600hisa.seesaa.net/upload/detail/image/DSCF0635_4954-thumbnail2.JPG.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><br />　京都文化博物館で開催されている「アイヌの美ー彩りと輝き」展を妻と見に行きました。日本の先住民族であるアイヌの衣服、帯、首飾り、儀礼用の太刀や漆器、煙草入れなどさまざまなものが展示されていました。刺繍家のチカップ美恵子さんの作品も多数ありましたが、やはりアイヌ文様が独特でインパクトが強く味わい深く、バリエーションにも富んでいました。<br />　娘は「ゴールデンカムイ」が好きで特にアイヌの少女アシリパが時に気に入っています。先日、テレビで放送されていた実写版の映画を一緒に見て、初めてその詳しい内容を知りました。アイヌの風習や文化がよく描かれており、確かにこの作品によってアイヌに興味関心を持った人が増えたに違いありません。<br />　アイヌ民族は日本人に迫害されて住む地域もどんどん狭められてきたという歴史があります。それはアメリカにおけるネイティブ・アメリカンの人々が差別を受け追いやられていったということと重なります。他の国でも同様の歴史があったのかもしれません。<br />　私がアイヌにとりわけ関心を持ったのは、梅原猛さん・埴原和郎さんの「アイヌ人は原日本人か」を読んで以来です。日本人の原点みたいなものが、アイヌ人にはあるのではないかと思ったものです。<br />　北海道庁旧本庁舎に、アイヌコーナーがありましたが、今回の展覧会はずっと規模が大きく、見応えがあり、アイヌ文化の一端に触れることができました。<br />　<br /><a name="more"></a>

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            <category>＃美術探訪</category>
      <author>石田世一</author>
      <guid isPermaLink="false">blog:https://blog.seesaa.jp,ishi1600hisa/520130593</guid>
                </item>
        <item>
      <link>https://ishi1600hisa.seesaa.net/article/520116423.html</link>
      <title>大河ドラマ探訪４８３　「豊臣兄弟！」９　墨俣一夜城築城をめぐって４　ドラマでは炎上　坂東肇氏「大垣の城館めぐり」４　「太閤記」に蜂須賀小六の名　</title>
      <pubDate>Wed, 04 Mar 2026 18:34:12 +0900</pubDate>
            <description>　大河ドラマ「豊臣兄弟！」では、秀吉が墨俣城を築城したと思ったら、敵の斎藤方をおびき寄せて、一挙に燃やしてしまい、文字通り一夜城だったという新たな描き方かされていました。燃やしてしまったら元も子もなくなると思うのですが、墨俣城築城は陽動作戦で、本当の目的は秀長らが北方城を襲うというもので、このあたり、ドラマとしての意外性・面白さはよく出ています。このあたりの描き方については、改めて取り上げたいと思います。　坂東肇氏の「大垣の城館めぐり」（大垣市文化財保護協会）の中で紹介されて..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
　大河ドラマ「豊臣兄弟！」では、秀吉が墨俣城を築城したと思ったら、敵の斎藤方をおびき寄せて、一挙に燃やしてしまい、文字通り一夜城だったという新たな描き方かされていました。燃やしてしまったら元も子もなくなると思うのですが、墨俣城築城は陽動作戦で、本当の目的は秀長らが北方城を襲うというもので、このあたり、ドラマとしての意外性・面白さはよく出ています。このあたりの描き方については、改めて取り上げたいと思います。
　坂東肇氏の「大垣の城館めぐり」（大垣市文化財保護協会）の中で紹介されている、軍記物の「太閤記」の墨俣一夜城についての記述の続きです。
　信長に墨俣城の砦を築くように命じられた藤吉郎は、兵を１２００余り集め、その中に蜂須賀小六(正勝)の名も記されています。彼らは「夜盗強盗をはたらくような者」と記載されていますから、蜂須賀もそのたぐいの者だと見なされてきたように思います。蜂須賀家は江戸時代、徳島藩の藩主を務めていますが、蜂須賀家の先祖は泥棒だと思われてその評判に悩まされてきたと言います。
　「豊臣兄弟！」では、蜂須賀正勝は川並衆の棟梁として描かれていました。前野長康もかつては川並衆に属していましたが、正勝を裏切り、信長の家臣になりましたが、秀吉に説得されて、共に墨俣城の築城に取り組むという流れになっていました。「豊臣兄弟！紀行」では、正勝はかつては斎藤氏に仕えていたと説明されていました。いずれにせよ、正勝が強盗のたぐいでないことは確かです。
　「太閤記」では、永禄９年７月５日に長屋、櫓、塀、柵木などを８月２０日までに準備するよう命じられたと記されています。一方、「墨俣一夜城築城資料」の中の、同年７月３日付の「築城之事」には、「高ヤグラ」「低ヤグラ」「土居」「高塀」をはじめとして、作事するものの広さや高さなどまで詳しく記載されています。両者の関連性がうかがえます。<a></a>

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      <content:encoded><![CDATA[
　大河ドラマ「豊臣兄弟！」では、秀吉が墨俣城を築城したと思ったら、敵の斎藤方をおびき寄せて、一挙に燃やしてしまい、文字通り一夜城だったという新たな描き方かされていました。燃やしてしまったら元も子もなくなると思うのですが、墨俣城築城は陽動作戦で、本当の目的は秀長らが北方城を襲うというもので、このあたり、ドラマとしての意外性・面白さはよく出ています。このあたりの描き方については、改めて取り上げたいと思います。<br />　坂東肇氏の「大垣の城館めぐり」（大垣市文化財保護協会）の中で紹介されている、軍記物の「太閤記」の墨俣一夜城についての記述の続きです。<br />　信長に墨俣城の砦を築くように命じられた藤吉郎は、兵を１２００余り集め、その中に蜂須賀小六(正勝)の名も記されています。彼らは「夜盗強盗をはたらくような者」と記載されていますから、蜂須賀もそのたぐいの者だと見なされてきたように思います。蜂須賀家は江戸時代、徳島藩の藩主を務めていますが、蜂須賀家の先祖は泥棒だと思われてその評判に悩まされてきたと言います。<br />　「豊臣兄弟！」では、蜂須賀正勝は川並衆の棟梁として描かれていました。前野長康もかつては川並衆に属していましたが、正勝を裏切り、信長の家臣になりましたが、秀吉に説得されて、共に墨俣城の築城に取り組むという流れになっていました。「豊臣兄弟！紀行」では、正勝はかつては斎藤氏に仕えていたと説明されていました。いずれにせよ、正勝が強盗のたぐいでないことは確かです。<br />　「太閤記」では、永禄９年７月５日に長屋、櫓、塀、柵木などを８月２０日までに準備するよう命じられたと記されています。一方、「墨俣一夜城築城資料」の中の、同年７月３日付の「築城之事」には、「高ヤグラ」「低ヤグラ」「土居」「高塀」をはじめとして、作事するものの広さや高さなどまで詳しく記載されています。両者の関連性がうかがえます。<a name="more"></a>

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            <category>＃大河ドラマ探訪</category>
      <author>石田世一</author>
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                </item>
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      <link>https://ishi1600hisa.seesaa.net/article/520113546.html</link>
      <title>朝ドラ「ばけばけ」７　史実では一家の熊本移住は目を保護するためでもあった・脚本家のマスコミ批判？</title>
      <pubDate>Wed, 04 Mar 2026 11:13:16 +0900</pubDate>
            <description>　小泉八雲は右目だけで生活していたので、同じような不自由さを抱える自分にとっても、他人事ではない気がします。八雲は若い頃、ロープの結び目が左目に当たり失明し、右目も強い近視だったので、相当苦労したようです。朝ドラ「ばけばけ」で、八雲がモデルのヘブンが、読んだり書いたりする時に目をものに極度に近づける場面がしきりに出てきますが、史実を踏まえているのでしょう。実際に八雲が使っていた背の高い机と同じような机もドラマでも登場していました。　八雲とセツ夫婦は松江から熊本に移住しましたが..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
　小泉八雲は右目だけで生活していたので、同じような不自由さを抱える自分にとっても、他人事ではない気がします。八雲は若い頃、ロープの結び目が左目に当たり失明し、右目も強い近視だったので、相当苦労したようです。朝ドラ「ばけばけ」で、八雲がモデルのヘブンが、読んだり書いたりする時に目をものに極度に近づける場面がしきりに出てきますが、史実を踏まえているのでしょう。実際に八雲が使っていた背の高い机と同じような机もドラマでも登場していました。
　八雲とセツ夫婦は松江から熊本に移住しましたが、その理由について、伊藤賀一氏の「小泉八雲とセツ」(リベラル新書)の中で、「寒さから身体と眼を護るため」だったと記されています。寒さが目に悪いのは事実で、寒いと眼圧が高くなる、目への血流が悪くなる、水分が不足して目が乾きやすくなるなどの影響があるようです。もっとも、「ばけばけ」では、熊本に移住した理由について、ヘブンが寒さに弱いからだということは示されていましたが、目のことについては触れられていませんでした。身体的なことは差別につながりかねないので、ドラマで目のことはパスしたのではないでしょうか。
　「ばけばけ」では、その代わり、ヒロインのトキが、新聞記事によって「らしゃめん」(外国人の妾となった女性)だという噂が松江の人々の間で広がり迫害され、そういう状況はまもなく収まったものの、人々の注目を浴びず、新天地でやり直したいという思いから移住したという捉え方がされていました。ドラマでは、一時は新聞記者がセツとヘブン夫妻に張り付いて記事を書き、松江でもてはやされますが、今度はヘブンがセツの家の多額の借金を全額返したという記事を書かれたために、世間の人々の見方が百八十度変わりました。こういう話はフィクションではないかと思われますが、現代の風潮に対する脚本家の思いが投影されているように思えました。マスコミやＳＮＳの記事・投稿によって人々は左右され、その内容を吟味せぬまま鵜呑みにして、他人をほめそやしたり逆におとしめたりしています。そのゆゆしき現状を脚本家がドラマに仮託して描き、暗に批判しているのではないでしょうか。　　　
<a href="https://ishi1600hisa.up.seesaa.net/image/DSCF0598_4917.JPG" target="_blank"><img border="0" alt="DSCF0598_4917.JPG" src="https://ishi1600hisa.up.seesaa.net/image/DSCF0598_4917-thumbnail2.JPG" width="640" height="480"></a>
　写真はNＨＫ大阪放送局を撮ったものです。「中之島クロス」を見た後、「ばけばけ」のセット公開を見に行きましたが、土曜とあって大行列ができており、待ち時間は１時間半から２時間と聞いてやむなく断念しました。トキが暮らした長屋のセットが公開されていましたが、見られなくていささか残念な気がしています。<a></a>

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      <content:encoded><![CDATA[
　小泉八雲は右目だけで生活していたので、同じような不自由さを抱える自分にとっても、他人事ではない気がします。八雲は若い頃、ロープの結び目が左目に当たり失明し、右目も強い近視だったので、相当苦労したようです。朝ドラ「ばけばけ」で、八雲がモデルのヘブンが、読んだり書いたりする時に目をものに極度に近づける場面がしきりに出てきますが、史実を踏まえているのでしょう。実際に八雲が使っていた背の高い机と同じような机もドラマでも登場していました。<br />　八雲とセツ夫婦は松江から熊本に移住しましたが、その理由について、伊藤賀一氏の「小泉八雲とセツ」(リベラル新書)の中で、「寒さから身体と眼を護るため」だったと記されています。寒さが目に悪いのは事実で、寒いと眼圧が高くなる、目への血流が悪くなる、水分が不足して目が乾きやすくなるなどの影響があるようです。もっとも、「ばけばけ」では、熊本に移住した理由について、ヘブンが寒さに弱いからだということは示されていましたが、目のことについては触れられていませんでした。身体的なことは差別につながりかねないので、ドラマで目のことはパスしたのではないでしょうか。<br />　「ばけばけ」では、その代わり、ヒロインのトキが、新聞記事によって「らしゃめん」(外国人の妾となった女性)だという噂が松江の人々の間で広がり迫害され、そういう状況はまもなく収まったものの、人々の注目を浴びず、新天地でやり直したいという思いから移住したという捉え方がされていました。ドラマでは、一時は新聞記者がセツとヘブン夫妻に張り付いて記事を書き、松江でもてはやされますが、今度はヘブンがセツの家の多額の借金を全額返したという記事を書かれたために、世間の人々の見方が百八十度変わりました。こういう話はフィクションではないかと思われますが、現代の風潮に対する脚本家の思いが投影されているように思えました。マスコミやＳＮＳの記事・投稿によって人々は左右され、その内容を吟味せぬまま鵜呑みにして、他人をほめそやしたり逆におとしめたりしています。そのゆゆしき現状を脚本家がドラマに仮託して描き、暗に批判しているのではないでしょうか。　　　<br /><a href="https://ishi1600hisa.up.seesaa.net/image/DSCF0598_4917.JPG" target="_blank"><img border="0" alt="DSCF0598_4917.JPG" src="https://ishi1600hisa.up.seesaa.net/image/DSCF0598_4917-thumbnail2.JPG" width="640" height="480" onclick="location.href = 'https://ishi1600hisa.seesaa.net/upload/detail/image/DSCF0598_4917-thumbnail2.JPG.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><br />　写真はNＨＫ大阪放送局を撮ったものです。「中之島クロス」を見た後、「ばけばけ」のセット公開を見に行きましたが、土曜とあって大行列ができており、待ち時間は１時間半から２時間と聞いてやむなく断念しました。トキが暮らした長屋のセットが公開されていましたが、見られなくていささか残念な気がしています。<a name="more"></a>

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            <category> ＃ドラマ探訪</category>
      <author>石田世一</author>
      <guid isPermaLink="false">blog:https://blog.seesaa.jp,ishi1600hisa/520113546</guid>
                </item>
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      <link>https://ishi1600hisa.seesaa.net/article/520110006.html</link>
      <title>「中之島クロス」の万博レガシーの展示・iPS細胞関係の説明パネル・ミャクミャクのモニュメントも</title>
      <pubDate>Tue, 03 Mar 2026 21:50:57 +0900</pubDate>
            <description>　　関西医大の眼科の診察が終わった後、京阪電車で渡辺橋駅まで足を伸ばし、「中之島クロス」の万博レガシーの展示を見に行きました。大阪ヘルスケアパビリオンで展示されていたiPS細胞関係の説明パネルなどがありました。「中之島クロス」は、再生医療の産業化の拠点 ですが、訪れるのは初めてでした。土曜日だったので、企業などは休業していましたが、展示スペースは開放されていました。大阪ヘルスケアパビリオンは４月に万博に行った時に、並ばずに入れました。展示内容は見覚えがあります。残念ながら今回..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
<a href="https://ishi1600hisa.up.seesaa.net/image/DSCF0543_4862.JPG" target="_blank"><img border="0" alt="DSCF0543_4862.JPG" src="https://ishi1600hisa.up.seesaa.net/image/DSCF0543_4862-thumbnail2.JPG" width="480" height="640"></a><a href="https://ishi1600hisa.up.seesaa.net/image/DSCF0560_4879.JPG" target="_blank"><img border="0" alt="DSCF0560_4879.JPG" src="https://ishi1600hisa.up.seesaa.net/image/DSCF0560_4879-thumbnail2.JPG" width="640" height="480"></a><a href="https://ishi1600hisa.up.seesaa.net/image/DSCF0565_4884.JPG" target="_blank"><img border="0" alt="DSCF0565_4884.JPG" src="https://ishi1600hisa.up.seesaa.net/image/DSCF0565_4884-thumbnail2.JPG" width="640" height="480"></a><a href="https://ishi1600hisa.up.seesaa.net/image/DSCF0567_4886.JPG" target="_blank"><img border="0" alt="DSCF0567_4886.JPG" src="https://ishi1600hisa.up.seesaa.net/image/DSCF0567_4886-thumbnail2.JPG" width="640" height="480"></a><a href="https://ishi1600hisa.up.seesaa.net/image/DSCF0545_4864.JPG" target="_blank"><img border="0" alt="DSCF0545_4864.JPG" src="https://ishi1600hisa.up.seesaa.net/image/DSCF0545_4864-thumbnail2.JPG" width="640" height="480"></a>　
　関西医大の眼科の診察が終わった後、京阪電車で渡辺橋駅まで足を伸ばし、「中之島クロス」の万博レガシーの展示を見に行きました。大阪ヘルスケアパビリオンで展示されていたiPS細胞関係の説明パネルなどがありました。「中之島クロス」は、再生医療の産業化の拠点 ですが、訪れるのは初めてでした。土曜日だったので、企業などは休業していましたが、展示スペースは開放されていました。大阪ヘルスケアパビリオンは４月に万博に行った時に、並ばずに入れました。展示内容は見覚えがあります。残念ながら今回は心筋シートは展示されていませんでしたが、iPS細胞を使った再生医療について、わかりやすく説明されています。心筋シートが実用化されるということが新聞に載っていましたが、iPS細胞を使ってさまざまな病気の治療につながるなら、こんな喜ばしいことはありません。
　加齢黄斑変性症の人にiPS細胞由来の網膜を移植して、１０年経っても視力が維持できたというニュースも出ていました。私の場合は、眼底出血した影響で網膜が腫れてものがゆがんで見えるようになりましたが、将来的には、網膜の移植によって視力が取り戻せるようになったらいいのにと思います。むろん、私などはとても間に合わないでしょうが。
　ミャクミャクのモニュメントも展示されていましたが、これは３月末までの展示です。<a></a>

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      <content:encoded><![CDATA[
<a href="https://ishi1600hisa.up.seesaa.net/image/DSCF0543_4862.JPG" target="_blank"><img border="0" alt="DSCF0543_4862.JPG" src="https://ishi1600hisa.up.seesaa.net/image/DSCF0543_4862-thumbnail2.JPG" width="480" height="640" onclick="location.href = 'https://ishi1600hisa.seesaa.net/upload/detail/image/DSCF0543_4862-thumbnail2.JPG.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><a href="https://ishi1600hisa.up.seesaa.net/image/DSCF0560_4879.JPG" target="_blank"><img border="0" alt="DSCF0560_4879.JPG" src="https://ishi1600hisa.up.seesaa.net/image/DSCF0560_4879-thumbnail2.JPG" width="640" height="480" onclick="location.href = 'https://ishi1600hisa.seesaa.net/upload/detail/image/DSCF0560_4879-thumbnail2.JPG.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><a href="https://ishi1600hisa.up.seesaa.net/image/DSCF0565_4884.JPG" target="_blank"><img border="0" alt="DSCF0565_4884.JPG" src="https://ishi1600hisa.up.seesaa.net/image/DSCF0565_4884-thumbnail2.JPG" width="640" height="480" onclick="location.href = 'https://ishi1600hisa.seesaa.net/upload/detail/image/DSCF0565_4884-thumbnail2.JPG.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><a href="https://ishi1600hisa.up.seesaa.net/image/DSCF0567_4886.JPG" target="_blank"><img border="0" alt="DSCF0567_4886.JPG" src="https://ishi1600hisa.up.seesaa.net/image/DSCF0567_4886-thumbnail2.JPG" width="640" height="480" onclick="location.href = 'https://ishi1600hisa.seesaa.net/upload/detail/image/DSCF0567_4886-thumbnail2.JPG.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><a href="https://ishi1600hisa.up.seesaa.net/image/DSCF0545_4864.JPG" target="_blank"><img border="0" alt="DSCF0545_4864.JPG" src="https://ishi1600hisa.up.seesaa.net/image/DSCF0545_4864-thumbnail2.JPG" width="640" height="480" onclick="location.href = 'https://ishi1600hisa.seesaa.net/upload/detail/image/DSCF0545_4864-thumbnail2.JPG.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a>　<br />　関西医大の眼科の診察が終わった後、京阪電車で渡辺橋駅まで足を伸ばし、「中之島クロス」の万博レガシーの展示を見に行きました。大阪ヘルスケアパビリオンで展示されていたiPS細胞関係の説明パネルなどがありました。「中之島クロス」は、再生医療の産業化の拠点 ですが、訪れるのは初めてでした。土曜日だったので、企業などは休業していましたが、展示スペースは開放されていました。大阪ヘルスケアパビリオンは４月に万博に行った時に、並ばずに入れました。展示内容は見覚えがあります。残念ながら今回は心筋シートは展示されていませんでしたが、iPS細胞を使った再生医療について、わかりやすく説明されています。心筋シートが実用化されるということが新聞に載っていましたが、iPS細胞を使ってさまざまな病気の治療につながるなら、こんな喜ばしいことはありません。<br />　加齢黄斑変性症の人にiPS細胞由来の網膜を移植して、１０年経っても視力が維持できたというニュースも出ていました。私の場合は、眼底出血した影響で網膜が腫れてものがゆがんで見えるようになりましたが、将来的には、網膜の移植によって視力が取り戻せるようになったらいいのにと思います。むろん、私などはとても間に合わないでしょうが。<br />　ミャクミャクのモニュメントも展示されていましたが、これは３月末までの展示です。<a name="more"></a>

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            <category>＃万博</category>
      <author>石田世一</author>
      <guid isPermaLink="false">blog:https://blog.seesaa.jp,ishi1600hisa/520110006</guid>
                </item>
        <item>
      <link>https://ishi1600hisa.seesaa.net/article/520106871.html</link>
      <title>石田三成の実像 ４１７０　白峰旬氏「『秀頼様』という表記についてープリンスとしての豊臣秀頼ー」３２　三成と増田長盛は政権の最高級メンバー</title>
      <pubDate>Tue, 03 Mar 2026 13:40:21 +0900</pubDate>
            <description>　白峰旬氏の「『秀頼様』という表記についてープリンスとしての豊臣秀頼ー」の中で、三成と増田長盛について、次のような指摘がされています。　「秀吉の死去後、豊臣王朝の王（＝山本論文の理論による）である秀頼が、当該期の豊臣公儀の新しいカリスマである『秀頼様』となり、石田三成と増田長盛は、政権の最高級メンバーである『取次』（『秀頼様』の『取次』）として独自の地位を保持したと見なすことができる」と。　こういう指摘は、山本博文氏の次のような見解に基づくものです。　「豊臣政権の『取次』機構..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
　白峰旬氏の「『秀頼様』という表記についてープリンスとしての豊臣秀頼ー」の中で、三成と増田長盛について、次のような指摘がされています。
　「秀吉の死去後、豊臣王朝の王（＝山本論文の理論による）である秀頼が、当該期の豊臣公儀の新しいカリスマである『秀頼様』となり、石田三成と増田長盛は、政権の最高級メンバーである『取次』（『秀頼様』の『取次』）として独自の地位を保持したと見なすことができる」と。
　こういう指摘は、山本博文氏の次のような見解に基づくものです。　
「豊臣政権の『取次』機構は、津野（引用者注：津野倫明氏）も認めるように、次第に石田三成と増田長盛に収斂されてゆく。つまり、絶対君主秀吉とその側近グループによって行われる政治が、豊臣政権の特質なのである」
「『取次』の定義として『諸大名への命令伝達や個々の大名を服属させ後見するといった諸機能を果たし、かつそのような役割を公的に認められ、期待される政権の最高級メンバー』（下線引用者）としている」と。
　豊臣政権の「取次」は、単に主君の命令を諸大名に伝えるだけでなく、「大名を服属させ後見する」役割も果たしていたわけです。この点に　　ついて、山本氏の「天下人の一級史料」(柏書房)の中で、「『取次』は、大名に対してさまざまな要求も行います。それが果たせない時は、大名の政治にまで口を出していきます」と記されています。
　研究者の間で、豊臣政権の「取次」についての議論はさかんですし、三成についても最近は研究が進みいろいろと論じられていますが、増田長盛についてはあまり研究されていないような気がします。もっとも、石畑匡基氏の論考「増田長盛と豊臣の『公儀』ー秀吉死後の権力闘争ー」があり、長盛についてよく論じられていますので、いずれ拙ブログでも取り上げたいと思います。
　慶長４年閏３月、三成が失脚して奉行職を解かれ、佐和山に隠居しますが、長盛はそのまま奉行にとどまったため、台頭してきた大老の家康も長盛には一目置いていたのではないでしょうか。それだからこそ、家康は、長盛を含めた三奉行も反家康勢力に参画し新たな豊臣公儀が樹立されたことに大きな衝撃を受けたように思われます。
　
　
　<a></a>

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      <content:encoded><![CDATA[
　白峰旬氏の「『秀頼様』という表記についてープリンスとしての豊臣秀頼ー」の中で、三成と増田長盛について、次のような指摘がされています。<br />　「秀吉の死去後、豊臣王朝の王（＝山本論文の理論による）である秀頼が、当該期の豊臣公儀の新しいカリスマである『秀頼様』となり、石田三成と増田長盛は、政権の最高級メンバーである『取次』（『秀頼様』の『取次』）として独自の地位を保持したと見なすことができる」と。<br />　こういう指摘は、山本博文氏の次のような見解に基づくものです。　<br />「豊臣政権の『取次』機構は、津野（引用者注：津野倫明氏）も認めるように、次第に石田三成と増田長盛に収斂されてゆく。つまり、絶対君主秀吉とその側近グループによって行われる政治が、豊臣政権の特質なのである」<br />「『取次』の定義として『諸大名への命令伝達や個々の大名を服属させ後見するといった諸機能を果たし、かつそのような役割を公的に認められ、期待される政権の最高級メンバー』（下線引用者）としている」と。<br />　豊臣政権の「取次」は、単に主君の命令を諸大名に伝えるだけでなく、「大名を服属させ後見する」役割も果たしていたわけです。この点に　　ついて、山本氏の「天下人の一級史料」(柏書房)の中で、「『取次』は、大名に対してさまざまな要求も行います。それが果たせない時は、大名の政治にまで口を出していきます」と記されています。<br />　研究者の間で、豊臣政権の「取次」についての議論はさかんですし、三成についても最近は研究が進みいろいろと論じられていますが、増田長盛についてはあまり研究されていないような気がします。もっとも、石畑匡基氏の論考「増田長盛と豊臣の『公儀』ー秀吉死後の権力闘争ー」があり、長盛についてよく論じられていますので、いずれ拙ブログでも取り上げたいと思います。<br />　慶長４年閏３月、三成が失脚して奉行職を解かれ、佐和山に隠居しますが、長盛はそのまま奉行にとどまったため、台頭してきた大老の家康も長盛には一目置いていたのではないでしょうか。それだからこそ、家康は、長盛を含めた三奉行も反家康勢力に参画し新たな豊臣公儀が樹立されたことに大きな衝撃を受けたように思われます。<br />　<br />　<br />　<a name="more"></a>

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            <category>＃石田三成</category>
      <author>石田世一</author>
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                </item>
        <item>
      <link>https://ishi1600hisa.seesaa.net/article/520099415.html</link>
      <title>関西医大の眼科で年に一度の診察・白内障手術そして眼底出血</title>
      <pubDate>Tue, 03 Mar 2026 01:28:38 +0900</pubDate>
            <description>　関西医大総合医療センターまで年に一度の眼科の診察を受けに行ってきました。途中５年のブランクはありますが、５０年近く通っていますし、死ぬまで縁は切れないでしょう。４０年前に患った眼底出血の経過観察を行う必要があるからです。出血は長い間収まっているものの、その後遺症でものが歪んで見える状態が治らないままです。幸い、患っているのは右目だけで、左目は正常に見えるので普通に生活できますが、遠近感がつかめないなどの支障はあります。　２６歳の時に患った白内障の手術を、関西医大の宇山教授に..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
　関西医大総合医療センターまで年に一度の眼科の診察を受けに行ってきました。途中５年のブランクはありますが、５０年近く通っていますし、死ぬまで縁は切れないでしょう。４０年前に患った眼底出血の経過観察を行う必要があるからです。出血は長い間収まっているものの、その後遺症でものが歪んで見える状態が治らないままです。幸い、患っているのは右目だけで、左目は正常に見えるので普通に生活できますが、遠近感がつかめないなどの支障はあります。
　２６歳の時に患った白内障の手術を、関西医大の宇山教授に執刀してもらったのが最初です。今は日帰り手術もありますが、簡便な手術方法が開発されたからで、当時はそのようなものはなく、術後一日間は絶対安静が必要で、病室に母が泊まり込んでくれました。２・３週間の入院予定が、１ヶ月以上に及びましたが、使った薬で眼圧が異常に上がり、それがなかなか下がらなかったためでした。頭が痛くなり、食欲もなくなりました。ごはんの匂いが鼻につくという経験もしましたが、高すぎる眼圧のなせるわざでした。
　それから５年程して今度は眼底出血を患い、また関西医大にお世話になりました。今度は通院で済みましたが、出血がなかなか止まらない時は１週間に１回通う必要があり、どんどん薬が変わりました。若い頃は近視にもならず、目には自信があり、家族にも目の病気を患った者はいなかったのですが、眼病で一生苦しめられることになりました。学生の頃は本を読んでばかりでしたから、目を酷使したのが影響したのか、アレルギー性のものか、ストレス性のものか原因は今もって不明です。　
<a href="https://ishi1600hisa.up.seesaa.net/image/DSCF0536_4855.JPG" target="_blank"><img border="0" alt="DSCF0536_4855.JPG" src="https://ishi1600hisa.up.seesaa.net/image/DSCF0536_4855-thumbnail2.JPG" width="640" height="480"></a>
　写真はホスピタル・ガーデンです。かつてはここに関西医大滝井病院が建っており、この一角に私も入院していました。後ろに建っているのが総合医療センターです。

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      <content:encoded><![CDATA[
　関西医大総合医療センターまで年に一度の眼科の診察を受けに行ってきました。途中５年のブランクはありますが、５０年近く通っていますし、死ぬまで縁は切れないでしょう。４０年前に患った眼底出血の経過観察を行う必要があるからです。出血は長い間収まっているものの、その後遺症でものが歪んで見える状態が治らないままです。幸い、患っているのは右目だけで、左目は正常に見えるので普通に生活できますが、遠近感がつかめないなどの支障はあります。<br />　２６歳の時に患った白内障の手術を、関西医大の宇山教授に執刀してもらったのが最初です。今は日帰り手術もありますが、簡便な手術方法が開発されたからで、当時はそのようなものはなく、術後一日間は絶対安静が必要で、病室に母が泊まり込んでくれました。２・３週間の入院予定が、１ヶ月以上に及びましたが、使った薬で眼圧が異常に上がり、それがなかなか下がらなかったためでした。頭が痛くなり、食欲もなくなりました。ごはんの匂いが鼻につくという経験もしましたが、高すぎる眼圧のなせるわざでした。<br />　それから５年程して今度は眼底出血を患い、また関西医大にお世話になりました。今度は通院で済みましたが、出血がなかなか止まらない時は１週間に１回通う必要があり、どんどん薬が変わりました。若い頃は近視にもならず、目には自信があり、家族にも目の病気を患った者はいなかったのですが、眼病で一生苦しめられることになりました。学生の頃は本を読んでばかりでしたから、目を酷使したのが影響したのか、アレルギー性のものか、ストレス性のものか原因は今もって不明です。　<br /><a href="https://ishi1600hisa.up.seesaa.net/image/DSCF0536_4855.JPG" target="_blank"><img border="0" alt="DSCF0536_4855.JPG" src="https://ishi1600hisa.up.seesaa.net/image/DSCF0536_4855-thumbnail2.JPG" width="640" height="480" onclick="location.href = 'https://ishi1600hisa.seesaa.net/upload/detail/image/DSCF0536_4855-thumbnail2.JPG.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><br />　写真はホスピタル・ガーデンです。かつてはここに関西医大滝井病院が建っており、この一角に私も入院していました。後ろに建っているのが総合医療センターです。<br /><br /><a name="more"></a>

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            <category>＃思い出</category>
      <author>石田世一</author>
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        <item>
      <link>https://ishi1600hisa.seesaa.net/article/520093076.html</link>
      <title>大河ドラマ探訪４８３　「豊臣兄弟！」８　墨俣一夜城築城をめぐって３　ドラマでは永禄９年夏　坂東肇氏「大垣の城館めぐり」３　「太閤記」には地名はなし　</title>
      <pubDate>Mon, 02 Mar 2026 10:36:05 +0900</pubDate>
            <description>　大河ドラマ「豊臣兄弟！」では、秀吉が墨俣城の築城に取りかかるのは、永禄９年夏のこととして描かれていました。また「豊臣兄弟！　紀行」では、墨俣一夜城の話は伝説であり、江戸時代の読本「繪本太閤記」の記載がもとになっていると説明されていました。　墨俣城については、拙ブログで取り上げているように、坂東肇氏の「大垣の城館めぐり」（大垣市文化財保護協会）の中で、「信長公記」には、すでに永禄４年には、斎藤方が作った洲俣の砦を、信長方が占領し修復して活用していたとの記述があることが記されて..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
　大河ドラマ「豊臣兄弟！」では、秀吉が墨俣城の築城に取りかかるのは、永禄９年夏のこととして描かれていました。また「豊臣兄弟！　紀行」では、墨俣一夜城の話は伝説であり、江戸時代の読本「繪本太閤記」の記載がもとになっていると説明されていました。
　墨俣城については、拙ブログで取り上げているように、坂東肇氏の「大垣の城館めぐり」（大垣市文化財保護協会）の中で、「信長公記」には、すでに永禄４年には、斎藤方が作った洲俣の砦を、信長方が占領し修復して活用していたとの記述があることが記されています。
　江戸時代に書かれた「新撰美濃志」には、墨俣城は信長の家臣である秀吉が守る砦であると記されており、軍記物の「太閤記」の記述が引用されています。それによると、信長が老臣を集めて「美濃攻撃がうまくいくよう何かいい手立てはないか」と問うたところ、「『伊勢国に出張せしめ取出の要害』を構えて、兵を置けば、作戦も立てやすく、戦も有利になるのではないでしょうか」との意見が出、信長は「それは名案である。誰か川を渡って砦を作る者はいないか」と問いかけましたが、誰も名乗りをあげません。信長が後で藤吉郎（秀吉）を呼んで、砦を作る方法はないかと尋ねたところ、「尾張の野盗強盗をはたらく者に中にもいい兵として使える者が多くいるので、彼らをこの砦に入れて働かせてはどうでしょう」と言ったので、信長は藤吉郎をその任に当たらせました。その後、一夜城作りのことが具体的に述べられているのですが、その記載については改めて後述します。
　坂東氏は、「太閤記」には「取出の要害」とあるだけで墨俣という地名が出てこないことから、「この城館が墨俣に造られたとはいえず、他の場所に造られた可能性も大きい」と指摘されています。
　墨俣一夜城の話は、秀吉の出世譚の一つであり、秀吉が過大に宣伝し、庶民もそれを受け入れ、後世どんどん尾ひれが付いていったものだと思われます。<a></a>

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      <content:encoded><![CDATA[
　大河ドラマ「豊臣兄弟！」では、秀吉が墨俣城の築城に取りかかるのは、永禄９年夏のこととして描かれていました。また「豊臣兄弟！　紀行」では、墨俣一夜城の話は伝説であり、江戸時代の読本「繪本太閤記」の記載がもとになっていると説明されていました。<br />　墨俣城については、拙ブログで取り上げているように、坂東肇氏の「大垣の城館めぐり」（大垣市文化財保護協会）の中で、「信長公記」には、すでに永禄４年には、斎藤方が作った洲俣の砦を、信長方が占領し修復して活用していたとの記述があることが記されています。<br />　江戸時代に書かれた「新撰美濃志」には、墨俣城は信長の家臣である秀吉が守る砦であると記されており、軍記物の「太閤記」の記述が引用されています。それによると、信長が老臣を集めて「美濃攻撃がうまくいくよう何かいい手立てはないか」と問うたところ、「『伊勢国に出張せしめ取出の要害』を構えて、兵を置けば、作戦も立てやすく、戦も有利になるのではないでしょうか」との意見が出、信長は「それは名案である。誰か川を渡って砦を作る者はいないか」と問いかけましたが、誰も名乗りをあげません。信長が後で藤吉郎（秀吉）を呼んで、砦を作る方法はないかと尋ねたところ、「尾張の野盗強盗をはたらく者に中にもいい兵として使える者が多くいるので、彼らをこの砦に入れて働かせてはどうでしょう」と言ったので、信長は藤吉郎をその任に当たらせました。その後、一夜城作りのことが具体的に述べられているのですが、その記載については改めて後述します。<br />　坂東氏は、「太閤記」には「取出の要害」とあるだけで墨俣という地名が出てこないことから、「この城館が墨俣に造られたとはいえず、他の場所に造られた可能性も大きい」と指摘されています。<br />　墨俣一夜城の話は、秀吉の出世譚の一つであり、秀吉が過大に宣伝し、庶民もそれを受け入れ、後世どんどん尾ひれが付いていったものだと思われます。<a name="more"></a>

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            <category>＃大河ドラマ探訪</category>
      <author>石田世一</author>
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                </item>
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      <link>https://ishi1600hisa.seesaa.net/article/520088090.html</link>
      <title>映画「グラディエーター」と「ベン・ハー」４　共通点と相違点４　皇帝は実在の人物・ストーリーはフィクション</title>
      <pubDate>Sun, 01 Mar 2026 18:41:19 +0900</pubDate>
            <description>映画「ベン・ハー」では、実在の皇帝ティベリウスが出てきます。キリストが処刑された時に、ローマ帝国を支配していた皇帝です。「グラディエーター」に登場するアウレリウスも、その子のコモドゥスも実在の皇帝ですが、映画で描かれていたように、コモドゥスがアウレリウスを殺害したというのはフィクションです。アウレリウスは五賢帝の一人であり、半世紀以上前の大学受験の「世界史」の科目で五賢帝という語は覚えましたが、アウレリウスという皇帝名も暗記したかは定かではありません。アウレリウスは生前、コモ..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
映画「ベン・ハー」では、実在の皇帝ティベリウスが出てきます。キリストが処刑された時に、ローマ帝国を支配していた皇帝です。
「グラディエーター」に登場するアウレリウスも、その子のコモドゥスも実在の皇帝ですが、映画で描かれていたように、コモドゥスがアウレリウスを殺害したというのはフィクションです。アウレリウスは五賢帝の一人であり、半世紀以上前の大学受験の「世界史」の科目で五賢帝という語は覚えましたが、アウレリウスという皇帝名も暗記したかは定かではありません。アウレリウスは生前、コモドゥスに皇帝の位を譲っており、映画で描かれていたように、アウレリウスは皇帝の位を、資質に問題のあるコモドゥスではなく、人望が高い将軍のマキシマスに譲ろうとします。マキシマスにモデルはありますが、こういう継承の話もフィクションです。もっとも、コモドゥスは暴君として有名な皇帝なので、映画のように父殺しの罪を着せてもいいと制作者側は判断したのでしょうか。この映画のせいで、あらぬ罪もかぶせられ、父殺しは史実であると思った人々は多かったのではないでしょうか。歴史上の人物を登場させる場合は、慎重さが必要だと感じさせます。ドラマを劇的な展開にするために、とかく話を捏造し、面白さを追求するためには何をしても構わないと制作者は考えがちですが、作る側のモラルが問われるのではないでしょうか。勧善懲悪の物語では、悪人はどこまでも悪人であり、両作品もそうなっていますが。
　
　
　<a></a>

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      <content:encoded><![CDATA[
映画「ベン・ハー」では、実在の皇帝ティベリウスが出てきます。キリストが処刑された時に、ローマ帝国を支配していた皇帝です。<br />「グラディエーター」に登場するアウレリウスも、その子のコモドゥスも実在の皇帝ですが、映画で描かれていたように、コモドゥスがアウレリウスを殺害したというのはフィクションです。アウレリウスは五賢帝の一人であり、半世紀以上前の大学受験の「世界史」の科目で五賢帝という語は覚えましたが、アウレリウスという皇帝名も暗記したかは定かではありません。アウレリウスは生前、コモドゥスに皇帝の位を譲っており、映画で描かれていたように、アウレリウスは皇帝の位を、資質に問題のあるコモドゥスではなく、人望が高い将軍のマキシマスに譲ろうとします。マキシマスにモデルはありますが、こういう継承の話もフィクションです。もっとも、コモドゥスは暴君として有名な皇帝なので、映画のように父殺しの罪を着せてもいいと制作者側は判断したのでしょうか。この映画のせいで、あらぬ罪もかぶせられ、父殺しは史実であると思った人々は多かったのではないでしょうか。歴史上の人物を登場させる場合は、慎重さが必要だと感じさせます。ドラマを劇的な展開にするために、とかく話を捏造し、面白さを追求するためには何をしても構わないと制作者は考えがちですが、作る側のモラルが問われるのではないでしょうか。勧善懲悪の物語では、悪人はどこまでも悪人であり、両作品もそうなっていますが。<br />　<br />　<br />　<a name="more"></a>

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            <category>＃映画探訪</category>
      <author>石田世一</author>
      <guid isPermaLink="false">blog:https://blog.seesaa.jp,ishi1600hisa/520088090</guid>
                </item>
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      <link>https://ishi1600hisa.seesaa.net/article/520085532.html</link>
      <title>大河ドラマ探訪４８２　「豊臣兄弟！」７　墨俣一夜城築城をめぐって２　坂東肇氏「大垣の城館めぐり」２　秀吉が永禄６年頃に居城していたという記載</title>
      <pubDate>Sun, 01 Mar 2026 11:35:16 +0900</pubDate>
            <description>大垣市郷土館で坂東肇氏の「大垣の城館めぐり」（大垣市文化財保護協会）の中で、墨俣城のことが取り上げられていますが、その続きです。江戸時代に書かれた「美濃明細記」には、次のようなことが記されています。　「墨俣城は、永禄６年頃に秀吉が居城した信長の砦(取出)である。『太閤記』がいうには、永禄の頃に信長は城を構えた。秀吉を将として稲田大炊介、青山専七、蜂須賀小六など五六千人でここを守った。にわかに砦を築こうとした時、井口(岐阜城)より斎藤勢が攻撃してきた。天正頃には、池田信輝(恒興..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
大垣市郷土館で坂東肇氏の「大垣の城館めぐり」（大垣市文化財保護協会）の中で、墨俣城のことが取り上げられていますが、その続きです。江戸時代に書かれた「美濃明細記」には、次のようなことが記されています。
　「墨俣城は、永禄６年頃に秀吉が居城した信長の砦(取出)である。『太閤記』がいうには、永禄の頃に信長は城を構えた。秀吉を将として稲田大炊介、青山専七、蜂須賀小六など五六千人でここを守った。にわかに砦を築こうとした時、井口(岐阜城)より斎藤勢が攻撃してきた。天正頃には、池田信輝(恒興)の家臣である伊木清兵衛が城を守った」と。
　大河ドラマ「豊臣兄弟！」では、秀吉が墨俣一夜城を築城するのは、永禄８・９年頃のことだとして描かれています。拙ブログで前述したように、「信長公記」では、斎藤方が築いていた墨俣の砦を信長方が占領して修復して活用したのは永禄４年頃のことだと記されています。「太閤記」は江戸時代初期に書かれた軍記物ですが、墨俣一夜城は永禄９年のこととして描かれています。「美濃明細記」が、どういう根拠に基づいて永禄６年頃と記しているのかはわかりませんが。「太閤記」の内容についても坂東氏の同書で言及されていますが、これについては後述します。小説やドラマでの秀吉による墨俣一夜城築城の描き方は、「太閤記」の記載に多分に影響されているように思えます。
　伊木清兵衛が天正頃に墨俣城の城主であったということについては、天正１２年(１５８４)４月１２日付の伊木清兵衛忠次宛秀吉書状が、坂東氏の同書で挙げられています。秀吉が洲俣城の守りについての指示がその書状に記されており、「洲俣城は重要な橋頭堡として存在して」いたと指摘されています。<a></a>

]]></itunes:summary>
      <content:encoded><![CDATA[
大垣市郷土館で坂東肇氏の「大垣の城館めぐり」（大垣市文化財保護協会）の中で、墨俣城のことが取り上げられていますが、その続きです。江戸時代に書かれた「美濃明細記」には、次のようなことが記されています。<br />　「墨俣城は、永禄６年頃に秀吉が居城した信長の砦(取出)である。『太閤記』がいうには、永禄の頃に信長は城を構えた。秀吉を将として稲田大炊介、青山専七、蜂須賀小六など五六千人でここを守った。にわかに砦を築こうとした時、井口(岐阜城)より斎藤勢が攻撃してきた。天正頃には、池田信輝(恒興)の家臣である伊木清兵衛が城を守った」と。<br />　大河ドラマ「豊臣兄弟！」では、秀吉が墨俣一夜城を築城するのは、永禄８・９年頃のことだとして描かれています。拙ブログで前述したように、「信長公記」では、斎藤方が築いていた墨俣の砦を信長方が占領して修復して活用したのは永禄４年頃のことだと記されています。「太閤記」は江戸時代初期に書かれた軍記物ですが、墨俣一夜城は永禄９年のこととして描かれています。「美濃明細記」が、どういう根拠に基づいて永禄６年頃と記しているのかはわかりませんが。「太閤記」の内容についても坂東氏の同書で言及されていますが、これについては後述します。小説やドラマでの秀吉による墨俣一夜城築城の描き方は、「太閤記」の記載に多分に影響されているように思えます。<br />　伊木清兵衛が天正頃に墨俣城の城主であったということについては、天正１２年(１５８４)４月１２日付の伊木清兵衛忠次宛秀吉書状が、坂東氏の同書で挙げられています。秀吉が洲俣城の守りについての指示がその書状に記されており、「洲俣城は重要な橋頭堡として存在して」いたと指摘されています。<a name="more"></a>

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            <category>＃大河ドラマ探訪</category>
      <author>石田世一</author>
      <guid isPermaLink="false">blog:https://blog.seesaa.jp,ishi1600hisa/520085532</guid>
                </item>
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      <link>https://ishi1600hisa.seesaa.net/article/520073263.html</link>
      <title>映画「グラディエーター」と「ベン・ハー」３　共通点と相違点３　不利な状況をはねかえす・偶然ではない「りくりゅう」ペアの大逆転</title>
      <pubDate>Sat, 28 Feb 2026 21:33:33 +0900</pubDate>
            <description> 「グラディエーター」も「ベン・ハー」もアカデミー賞作品賞、主演男優賞を受賞しています。　両作品とも奴隷に落とされた身から這い上がる復讐劇で、大闘技場での戦いがクライマックスであり、主人公が不利な状況に置かれ、それをはねかえすのも共通しています。不利な状況に置かれるということで言えば、「ベン・ハー」では戦車競走の際に、卑劣なメッサラは、戦車の車輪に錐を装備して、相手の戦車を壊すという手を使っています。しかし、主人公のベン・ハーはそれに負けまいと競争を続け、結局、メッサラは自滅..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
 「グラディエーター」も「ベン・ハー」もアカデミー賞作品賞、主演男優賞を受賞しています。
　両作品とも奴隷に落とされた身から這い上がる復讐劇で、大闘技場での戦いがクライマックスであり、主人公が不利な状況に置かれ、それをはねかえすのも共通しています。不利な状況に置かれるということで言えば、「ベン・ハー」では戦車競走の際に、卑劣なメッサラは、戦車の車輪に錐を装備して、相手の戦車を壊すという手を使っています。しかし、主人公のベン・ハーはそれに負けまいと競争を続け、結局、メッサラは自滅して息絶えます。
　「グラディエーター」でも、コモドゥス皇帝(父帝を殺して帝位につきました)は、主人公のマキシマスと戦うに当たって、マキシマスの腰を刺して弱らせてから１対１で戦うという卑怯な手に出ます。しかし、主人公はひるむことなく勝利をおさめ、復讐を遂げます。
　不利な状況をはねのけるという点においては、「りくりゅう」ペアも同じでした。むろん、映画のようなダーティーなところは全くありませんが、ショート五位というハンディを見事に乗り越えて優勝した点で、映画の主人公と類似しています。
　もっとも、「グラディエーター」においては、主人公も力尽きて死んでしまいますから、空しさだけが残ります。民衆たちはマキシマスを英雄視しますが、死んでから偉人として崇められても何の意味があるのかという思いにとらわれます。マキシマスには何の罪もありませんし、処刑された妻子も同様で、理不尽な思いがしてなりません。
　その点、「ベン・ハー」の方は、キリストが起こした奇蹟によって、母と妹の病が治りますし、ベン・ハー自身も憎しみや怒りが消え、心の平安が生まれます。もっとも、これは偶然のことではなく、かつて砂漠の中で喉の渇きに苦しんでいた主人公にキリストが水を与えてくれたことがあり、それが伏線のようになっています。
　「りくりゅう」ペアの大逆転も、偶然ではなく、二人の強い絆によって生まれたのではないでしょうか。それまで木原選手が、三浦選手をずっと引っ張ってきたものの、今回、ショートの失敗に落ち込んで泣いているばかりだった木原選手に対して「自分たちならできる」と励ましたのは三浦選手でした。信頼関係で結ばれていたことがわかります。
　<a></a>

]]></itunes:summary>
      <content:encoded><![CDATA[
 「グラディエーター」も「ベン・ハー」もアカデミー賞作品賞、主演男優賞を受賞しています。<br />　両作品とも奴隷に落とされた身から這い上がる復讐劇で、大闘技場での戦いがクライマックスであり、主人公が不利な状況に置かれ、それをはねかえすのも共通しています。不利な状況に置かれるということで言えば、「ベン・ハー」では戦車競走の際に、卑劣なメッサラは、戦車の車輪に錐を装備して、相手の戦車を壊すという手を使っています。しかし、主人公のベン・ハーはそれに負けまいと競争を続け、結局、メッサラは自滅して息絶えます。<br />　「グラディエーター」でも、コモドゥス皇帝(父帝を殺して帝位につきました)は、主人公のマキシマスと戦うに当たって、マキシマスの腰を刺して弱らせてから１対１で戦うという卑怯な手に出ます。しかし、主人公はひるむことなく勝利をおさめ、復讐を遂げます。<br />　不利な状況をはねのけるという点においては、「りくりゅう」ペアも同じでした。むろん、映画のようなダーティーなところは全くありませんが、ショート五位というハンディを見事に乗り越えて優勝した点で、映画の主人公と類似しています。<br />　もっとも、「グラディエーター」においては、主人公も力尽きて死んでしまいますから、空しさだけが残ります。民衆たちはマキシマスを英雄視しますが、死んでから偉人として崇められても何の意味があるのかという思いにとらわれます。マキシマスには何の罪もありませんし、処刑された妻子も同様で、理不尽な思いがしてなりません。<br />　その点、「ベン・ハー」の方は、キリストが起こした奇蹟によって、母と妹の病が治りますし、ベン・ハー自身も憎しみや怒りが消え、心の平安が生まれます。もっとも、これは偶然のことではなく、かつて砂漠の中で喉の渇きに苦しんでいた主人公にキリストが水を与えてくれたことがあり、それが伏線のようになっています。<br />　「りくりゅう」ペアの大逆転も、偶然ではなく、二人の強い絆によって生まれたのではないでしょうか。それまで木原選手が、三浦選手をずっと引っ張ってきたものの、今回、ショートの失敗に落ち込んで泣いているばかりだった木原選手に対して「自分たちならできる」と励ましたのは三浦選手でした。信頼関係で結ばれていたことがわかります。<br />　<a name="more"></a>

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            <category>＃映画探訪</category>
      <author>石田世一</author>
      <guid isPermaLink="false">blog:https://blog.seesaa.jp,ishi1600hisa/520073263</guid>
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      <title>大河ドラマ探訪４８１　「豊臣兄弟！」６　墨俣一夜城築城をめぐって１　坂東肇氏「大垣の城館めぐり」１　ドラマより５年程早く砦を築いていたことを示す「信長公記」の記述　</title>
      <pubDate>Sat, 28 Feb 2026 01:22:15 +0900</pubDate>
            <description>　大垣市郷土館で坂東肇氏の「大垣の城館めぐり」（大垣市文化財保護協会）を入手しましたが、この中に大河ドラマ「豊臣兄弟！」でも出てきた墨俣城のことが取り上げられています。諸史料の墨俣城に関する記載について紹介され、考察が加えられています。　まず「信長公記」の記載が取り上げられていますが、永禄３年（１５６０）５月１３日に信長が木曽川、飛騨川を越えて西美濃の勝村に陣を敷き、翌１４日に敵の斎藤方が「洲の俣」から兵を出してきたと。その後の文には「洲俣御要害」と記されていることから、すで..</description>
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　大垣市郷土館で坂東肇氏の「大垣の城館めぐり」（大垣市文化財保護協会）を入手しましたが、この中に大河ドラマ「豊臣兄弟！」でも出てきた墨俣城のことが取り上げられています。諸史料の墨俣城に関する記載について紹介され、考察が加えられています。
　まず「信長公記」の記載が取り上げられていますが、永禄３年（１５６０）５月１３日に信長が木曽川、飛騨川を越えて西美濃の勝村に陣を敷き、翌１４日に敵の斎藤方が「洲の俣」から兵を出してきたと。その後の文には「洲俣御要害」と記されていることから、すでに洲俣には砦があったことがわかると坂東氏は指摘されています。
　さらに永禄４年５月には、信長は美濃へ侵入し、各所に放火し、「洲俣御要害」を占領して砦を修復し陣を置きました。５月２３日には、織田方は洲俣から出兵し、十四条村で斎藤方と戦闘に及びました。こういう記述から、坂東氏は「洲俣の砦、つまり墨俣城は、斉藤氏の領地であった時代にすでに造られていて、信長がそれを占領して活用した」と指摘されています。
　一方、大河ドラマ「豊臣兄弟！」では、永禄８年、信長が尾張を統一した後、墨俣に砦を築くように柴田勝家に命じ、秀吉は寧々と祝言を挙げますが、勝家が砦作りに失敗したため、秀吉が砦作りを命じられるという流れになっていました。
　こういう描き方は「太閤記」や吉田家で発見された「墨俣一夜城築城資料」の記載に拠っていると思われます（秀吉の墨俣一夜城築城は永禄９年のことだと記されています）が、これらの記載についても坂東氏の同書の中で取り上げられていますので、後述します。
　「信長公記」の記載が正しいとすれば、通説で言われる墨俣一夜城の築城時期より５年程早く、信長方は墨俣に砦を築いていたことになるわけです。<a></a>

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　大垣市郷土館で坂東肇氏の「大垣の城館めぐり」（大垣市文化財保護協会）を入手しましたが、この中に大河ドラマ「豊臣兄弟！」でも出てきた墨俣城のことが取り上げられています。諸史料の墨俣城に関する記載について紹介され、考察が加えられています。<br />　まず「信長公記」の記載が取り上げられていますが、永禄３年（１５６０）５月１３日に信長が木曽川、飛騨川を越えて西美濃の勝村に陣を敷き、翌１４日に敵の斎藤方が「洲の俣」から兵を出してきたと。その後の文には「洲俣御要害」と記されていることから、すでに洲俣には砦があったことがわかると坂東氏は指摘されています。<br />　さらに永禄４年５月には、信長は美濃へ侵入し、各所に放火し、「洲俣御要害」を占領して砦を修復し陣を置きました。５月２３日には、織田方は洲俣から出兵し、十四条村で斎藤方と戦闘に及びました。こういう記述から、坂東氏は「洲俣の砦、つまり墨俣城は、斉藤氏の領地であった時代にすでに造られていて、信長がそれを占領して活用した」と指摘されています。<br />　一方、大河ドラマ「豊臣兄弟！」では、永禄８年、信長が尾張を統一した後、墨俣に砦を築くように柴田勝家に命じ、秀吉は寧々と祝言を挙げますが、勝家が砦作りに失敗したため、秀吉が砦作りを命じられるという流れになっていました。<br />　こういう描き方は「太閤記」や吉田家で発見された「墨俣一夜城築城資料」の記載に拠っていると思われます（秀吉の墨俣一夜城築城は永禄９年のことだと記されています）が、これらの記載についても坂東氏の同書の中で取り上げられていますので、後述します。<br />　「信長公記」の記載が正しいとすれば、通説で言われる墨俣一夜城の築城時期より５年程早く、信長方は墨俣に砦を築いていたことになるわけです。<a name="more"></a>

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            <category>＃大河ドラマ探訪</category>
      <author>石田世一</author>
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