関ヶ原での講演会参加を兼ねての大垣旅行5 「豊臣の城 大垣城」という展示テーマ2 秀長は調停役・城主の変遷

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 大垣城でもらった豊臣秀長の歴史カードには「豊臣家の調整役」と記されていますが、「豊臣兄弟!」でも初回から秀長か知恵を働かせ村人の揉め事を仲裁する場面があり、このドラマでも「調整役」としての力量を存分に発揮してゆくのではないでしょうか。
 「豊臣家の城 大垣城」という展示テーマですが、本能寺の変の2年後の天正12年に、秀吉の甥の秀次が大垣城主になっており、その跡を秀長が継いでいます。秀長が大垣城主になったのは1年間だけで、その後を秀吉の家臣の加藤光泰、一柳直末が継ぎますが、天正17年に秀吉の甥の秀勝が城主になります。翌年には秀吉の家臣の伊藤祐盛、次いで子の盛正が城主になり、関ヶ原の戦いを迎えますが、計3人の豊臣一族が大垣城の城主を務めたわけです。
 拙ブログで前述したように、内堀信雄氏は、大垣城が東に対する秀吉の押さえの城で、豊臣直轄地の代官的な役割を果たしていたと指摘されていましたが、そういう重要な役目を果たしている城だからこそ、秀吉は大垣城の城主として代々豊臣一族や信頼できる家臣ばかりを任命したのでしょう。
 秀長は、天正12年の小牧・長久手の戦い、天正13年には紀州攻め・四国攻めに従軍し、その功績で大和郡山城主に任じられています。天正12年の段階で秀長が大垣城の城主になっていたとしても、実質的には代官的な意味合いが強かったのではないでしょうか。
 内堀氏の指摘通り、関ヶ原の戦いの際、三成が「豊臣の城」で東のおさえでもある大垣城に入ったのは当然の流れであり、大垣城が豊臣公儀の美濃方面軍の司令部だったと言えます。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              
 今回「豊臣の城」のテーマのもと、杭瀬川の戦い、関ヶ原の戦いについての展示がされているのは悪く在りません。しかし、拙ブログでも前述したように、展示内容は通説通りでいろいろと問題を感じましたが、詳しいことについては改めて述べたいと思います。
 
 

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