平野仁也氏の講演会「関ヶ原前哨戦ー尾張・美濃・伊勢の動向ー」・平野氏と小和田哲男氏による対談3 福島正則は最初から家康寄りではなかったという指摘
関ヶ原での平野仁也氏の講演会「関ヶ原前哨戦ー尾張・美濃・伊勢の動向ー」の中で、福島正則は必ずしも家康寄りではなかったのではないかという見解を述べられていましたが、その意見には全く同感です。その根拠として、2点挙げられていましたが、8月5日付の真田昌幸宛の三成書状の中で、福島正則の居城である清洲城と交渉中であり正則を味方に引き入れる目算があると述べていること、家康による会津攻めの際、正則は家康に城を貸すことを正則は断っているとの記述が、6月10日付の上杉家臣の来次氏秀書状にあることが取り上げられていました。これらの点については拙ブログでも以前に紹介しました。
もっとも、講演会では、7月25日に開かれた小山評定の際、正則が「三成討つべし」と声を上げ、諸将も次々にそれに続いたということを紹介されていましたが、小山評定についてはそういう会議が開かれたこと自体を白峰旬氏が指摘されていますし、正則はすでにこの時、西に向かって行動を開始しており、小山に行ってはいなかったことを高橋陽介氏なとが指摘されています。
小和田哲男氏は平野氏との対談の中で、正則と三成が対立していたという史料が見当たらず、正則は武断派、三成は吏僚派という捉え方がされて、正則は武功を立てたけれども知恵がないという捉え方がされるけれども、正則は領国経営もしっかりしていたと指摘されていました。平野氏は正則が猪突猛進だというイメージは江戸時代に作られたと述べておられました。
福島正則の実像については今後さらに研究を進める必要がありますし、関ヶ原の戦い前後の動向についても、詳しく見てゆく必要があるように感じました。
もっとも、講演会では、7月25日に開かれた小山評定の際、正則が「三成討つべし」と声を上げ、諸将も次々にそれに続いたということを紹介されていましたが、小山評定についてはそういう会議が開かれたこと自体を白峰旬氏が指摘されていますし、正則はすでにこの時、西に向かって行動を開始しており、小山に行ってはいなかったことを高橋陽介氏なとが指摘されています。
小和田哲男氏は平野氏との対談の中で、正則と三成が対立していたという史料が見当たらず、正則は武断派、三成は吏僚派という捉え方がされて、正則は武功を立てたけれども知恵がないという捉え方がされるけれども、正則は領国経営もしっかりしていたと指摘されていました。平野氏は正則が猪突猛進だというイメージは江戸時代に作られたと述べておられました。
福島正則の実像については今後さらに研究を進める必要がありますし、関ヶ原の戦い前後の動向についても、詳しく見てゆく必要があるように感じました。
この記事へのコメント