平野仁也氏の講演会「関ヶ原前哨戦ー尾張・美濃・伊勢の動向ー」・平野氏と小和田哲男氏による対談2 三成が大垣城を拠点にした意味合い
関ヶ原で平野仁也氏の講演会「関ヶ原前哨戦ー尾張・美濃・伊勢の動向ー」の中で、三成は大垣城主の伊藤盛正を追い出して大垣城を美濃攻略の拠点としたという捉え方をされていました。これは通説ですが、追い出したというのは違うのではないでしょうか。この点については、拙ブログで以前に紹介したことですが、内堀信雄氏の講演会「関ケ原合戦と美濃の城―岐阜城・黒野城・大垣城―」の中で、次のように指摘されていました。
すなわち、大垣城は東に対する秀吉の押さえの城で、代々の城主は豊臣家直轄地の代官的な役割を果たしており、三成らが大垣城を拠点にしたのは豊臣家を代表しているという意思を諸将に示す意味合いもあったからで、伊藤は進んで大垣城を明け渡したと。
大垣城の城主が豊臣直轄地の代官的な役割を果たしていたという指摘は重要で、三成が大垣城に入るのを伊藤は認めていたのでしょう。平野氏は小和田哲男氏との対談の中で、三成が大垣城ではなく岐阜城に入っていたら、状況が変わっていたのではないかと述べられていましたが、岐阜城は織田氏の城でしたから、到底入ることはできなかったのではないでしょうか。もっとも、平野氏は大垣城なら三成の居城である佐和山に戻ることは可能だったものの、岐阜城では佐和山との距離が遠くなると指摘されていましたが、それは十分あると思いました。
平野氏の話を聴いていて、関ヶ原の戦いの前日、家康が美濃赤坂に着陣した夜、三成が大垣城を出て西に向かったのは、佐和山城に退却しようとしたのではないかという思いを強くしました。佐和山城は堅固な城だったと平野氏は指摘されていましたから、余計に三成は佐和山城に戻って家康を迎え撃とうとしていたのではないかという思いを強くしました。
すなわち、大垣城は東に対する秀吉の押さえの城で、代々の城主は豊臣家直轄地の代官的な役割を果たしており、三成らが大垣城を拠点にしたのは豊臣家を代表しているという意思を諸将に示す意味合いもあったからで、伊藤は進んで大垣城を明け渡したと。
大垣城の城主が豊臣直轄地の代官的な役割を果たしていたという指摘は重要で、三成が大垣城に入るのを伊藤は認めていたのでしょう。平野氏は小和田哲男氏との対談の中で、三成が大垣城ではなく岐阜城に入っていたら、状況が変わっていたのではないかと述べられていましたが、岐阜城は織田氏の城でしたから、到底入ることはできなかったのではないでしょうか。もっとも、平野氏は大垣城なら三成の居城である佐和山に戻ることは可能だったものの、岐阜城では佐和山との距離が遠くなると指摘されていましたが、それは十分あると思いました。
平野氏の話を聴いていて、関ヶ原の戦いの前日、家康が美濃赤坂に着陣した夜、三成が大垣城を出て西に向かったのは、佐和山城に退却しようとしたのではないかという思いを強くしました。佐和山城は堅固な城だったと平野氏は指摘されていましたから、余計に三成は佐和山城に戻って家康を迎え撃とうとしていたのではないかという思いを強くしました。
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