関ヶ原での講演会参加を兼ねての大垣旅行2 水門川めぐり2 大垣城東総門跡まで南下 三成当時は大垣城はもっと小規模だった
大垣の水門川めぐりですが、新牛屋橋から南下して牛屋川橋、平和橋を経て、最上橋へ出ました。このすぐ西の栗屋公園に、自噴水があります。大垣は水の豊かなところで、逆にそれだからこそ水害にも見舞われてきました。
最上橋の南に貴船広場があり、ここには大垣城東総門跡碑(名古屋口門)が建っています。名古屋口の総門を修築したのは、江戸時代、大垣藩主になった戸田氏鉄です。
大垣城が今の規模になったのは江戸時代のことで、関ヶ原の戦いの際、三成が大垣城を拠点にした時には、もっと小規模なものであったことは白峰旬氏が指摘されています。大軍勢を収容するにはふさわしくなかったと言います。確かに、島津義弘は大垣城外に布陣しています。いつまでも大垣城にとどまっていられないことを三成らは認識しており、そこから移動したのは当然のなりゆきだったというわけです。
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