関ヶ原での講演会参加を兼ねての大垣旅行1 2000年に初めて大垣を訪ねる・決戦が大垣でなかった悔しさ・水門川めぐり1 岐阜町道標
また大垣にやって来ました。明日の関ヶ原での講演会を聴きに行くためですが、今まで20回以上大垣に泊まっています。と言っても、最初は2000年のことで、大垣で「決戦関ヶ原 大垣展」が開かれ、合わせて決戦再現イベントも行われ、それを見に行きました。家康に扮していたのは宍戸錠さん、三成役は辰巳琢郎さんでした。両親が岐阜の出身で、子供の頃から夏休みなどはよく岐阜へ行っていましたが、実家はそれぞれ本巣郡(現本巣市)と揖斐郡にあるので、大垣は無縁でした。もっとも、大垣によく来るようになったのは、関ヶ原で講演会が頻繁に行われるようになってからのことなので、ここ何年かのことです。
全国的に大垣の知名度がそれほど高くないのを残念に思っています。関ヶ原の戦いが、もしも大垣で行われていたら、大垣は一躍有名になっていたに違いありません。三成は戦いの前夜まで1ヶ月程大垣城にいましたから、大垣で決戦が行われていたとしても不思議ではありません。以前は三成らは大垣城から関ヶ原におびき出されて敗北したという捉え方がされてきましたが、家康側は最初は三成らの移動を知らず慌てて彼らを追いましたから、移動はあくまで三成らの主体的行動でした。私はかねてより三成が関ヶ原へ先回りして良い場所に布陣して一大決戦を挑んだのではないかと考えていましたが、最近は関ヶ原の戦いが追撃戦であったという白峰旬氏の見解に傾いています。すなわち、美濃において大垣城が孤立化し、さらに家康の大軍が到着するに及んで、圧倒的に不利な状況になった三成側が、近江で巻き返しをはかるべく、大垣城から退却し、関ヶ原に来た際に、家康側の追撃を受けたのではないかと。圧倒的に不利な状況になったという点に関しては、いろいろ挙げられますが、この点についてはまた改めて述べたいと思います。


今日は昼過ぎに大垣に着き、ホテルに荷物を預けてから、駅前で遅い昼食(ネギトロ丼と温そばの定食)を取り、大垣城の外堀である水門川を途中までめぐりました。最近は大垣に来るたびに水門川めぐりを楽しんでいます。今回は駅の東にある愛宕神社、岐阜町道標のところから出発しました。愛宕神社は江戸時代、岐阜町の鎮守として造営された氏神です。道標には「右 きそ(木曽)路」「左 京ミち(道)」「北 たにくミ(谷汲)道」と記されており、常夜灯が建っています。


すぐそばに新牛屋橋が架かっていて、金色の擬宝珠が設置されています。ここからが水門川遊歩道である「四季の路」の始まりで、この道を南下しました。
全国的に大垣の知名度がそれほど高くないのを残念に思っています。関ヶ原の戦いが、もしも大垣で行われていたら、大垣は一躍有名になっていたに違いありません。三成は戦いの前夜まで1ヶ月程大垣城にいましたから、大垣で決戦が行われていたとしても不思議ではありません。以前は三成らは大垣城から関ヶ原におびき出されて敗北したという捉え方がされてきましたが、家康側は最初は三成らの移動を知らず慌てて彼らを追いましたから、移動はあくまで三成らの主体的行動でした。私はかねてより三成が関ヶ原へ先回りして良い場所に布陣して一大決戦を挑んだのではないかと考えていましたが、最近は関ヶ原の戦いが追撃戦であったという白峰旬氏の見解に傾いています。すなわち、美濃において大垣城が孤立化し、さらに家康の大軍が到着するに及んで、圧倒的に不利な状況になった三成側が、近江で巻き返しをはかるべく、大垣城から退却し、関ヶ原に来た際に、家康側の追撃を受けたのではないかと。圧倒的に不利な状況になったという点に関しては、いろいろ挙げられますが、この点についてはまた改めて述べたいと思います。
今日は昼過ぎに大垣に着き、ホテルに荷物を預けてから、駅前で遅い昼食(ネギトロ丼と温そばの定食)を取り、大垣城の外堀である水門川を途中までめぐりました。最近は大垣に来るたびに水門川めぐりを楽しんでいます。今回は駅の東にある愛宕神社、岐阜町道標のところから出発しました。愛宕神社は江戸時代、岐阜町の鎮守として造営された氏神です。道標には「右 きそ(木曽)路」「左 京ミち(道)」「北 たにくミ(谷汲)道」と記されており、常夜灯が建っています。
すぐそばに新牛屋橋が架かっていて、金色の擬宝珠が設置されています。ここからが水門川遊歩道である「四季の路」の始まりで、この道を南下しました。
この記事へのコメント