大河ドラマ探訪478 「豊臣兄弟」2 信長による岩倉城攻め・「信長公記」の記述
大河ドラマ「豊臣兄弟!」の中で、信長による岩倉城攻めのことが描かれていました。永禄2年3月のことです。岩倉城の織田伊勢守が降伏を申し入れてきたのを信長は受け入れず、城下を焼き尽くし、火矢や鉄砲で連日攻め立てよと家臣に命じていました。岩倉城攻めのことは「信長公記」に次のように記されています。
「町に放火して城をはだか城にし、四方に堅固な鹿垣を二重三重に立て廻して、交替の兵を配備して包囲した。二、三ヵ月近々と陣を据えて、火矢・鉄砲を撃ち込み、さまざまに手を替えて攻めた。岩倉方は守りきれないと判断して、城を明け渡し、将兵は散り散りに退去した。
その後、信長は岩倉の城を破壊し、清洲の居城に帰陣した」(原文略。中川太古氏訳による)と。
桐野作人氏の「織田信長 戦国最強の軍事カリスマ」(新人物往来社)の中で、「信長公記」のこの部分の原文が引用され、その前後の動向について次のように説明されています。
「浮野合戦での敗戦により、岩倉方は正面から信長と対決できなくなり、籠城するしかなくなった。信長は容赦なく岩倉城を攻め立てた。(中略)
岩倉城は城下や惣構を攻略され、本郭だけが残された。信長はその四方を厳重に囲ませた。進退窮まった信賢は信長に何度か降伏を申し入れたが拒絶され、ようやく翌2年3月、降伏が叶って退散した。信長は岩倉城を破却して、尾張統一をほぼなし遂げる」と。
浮野合戦は永禄元年7月に行なわれましたが、岩倉方は大敗しました。この合戦の詳細については、「信長公記」にも桐野氏の同書にも記されています。
ドラマでは岩倉城下が焼かれる場面もあり、ほぼ史実通りに描かれていたように思われます。岩倉方の使者を信長が斬り殺したという描き方はどうなのかという問題はありますが、尾張統一にかける信長の並々ならぬ思いはよくうかがえました。多分にエキセントリックに描かれていましたが。小栗旬さん演じる信長には大いに期待しています。
「町に放火して城をはだか城にし、四方に堅固な鹿垣を二重三重に立て廻して、交替の兵を配備して包囲した。二、三ヵ月近々と陣を据えて、火矢・鉄砲を撃ち込み、さまざまに手を替えて攻めた。岩倉方は守りきれないと判断して、城を明け渡し、将兵は散り散りに退去した。
その後、信長は岩倉の城を破壊し、清洲の居城に帰陣した」(原文略。中川太古氏訳による)と。
桐野作人氏の「織田信長 戦国最強の軍事カリスマ」(新人物往来社)の中で、「信長公記」のこの部分の原文が引用され、その前後の動向について次のように説明されています。
「浮野合戦での敗戦により、岩倉方は正面から信長と対決できなくなり、籠城するしかなくなった。信長は容赦なく岩倉城を攻め立てた。(中略)
岩倉城は城下や惣構を攻略され、本郭だけが残された。信長はその四方を厳重に囲ませた。進退窮まった信賢は信長に何度か降伏を申し入れたが拒絶され、ようやく翌2年3月、降伏が叶って退散した。信長は岩倉城を破却して、尾張統一をほぼなし遂げる」と。
浮野合戦は永禄元年7月に行なわれましたが、岩倉方は大敗しました。この合戦の詳細については、「信長公記」にも桐野氏の同書にも記されています。
ドラマでは岩倉城下が焼かれる場面もあり、ほぼ史実通りに描かれていたように思われます。岩倉方の使者を信長が斬り殺したという描き方はどうなのかという問題はありますが、尾張統一にかける信長の並々ならぬ思いはよくうかがえました。多分にエキセントリックに描かれていましたが。小栗旬さん演じる信長には大いに期待しています。
この記事へのコメント