石田三成の実像 4139 NHKの番組「知恵泉 新春スペシャル」4 寧々は豊臣家の母となって秀頼を守ろうとしたという福田千鶴氏の見解4 家康は伏見城の庭などを移転させたのは秀吉のにおいを消すため
番組「知恵泉 新春スペシャル」の中で、家康と寧々(おね、北政所、高台院)との関係性を示すものとして、寧々終焉の地である圓徳院の住職の話が取り上げられていました。
圓徳院の庭園は伏見城の遺構ですが、もともと秀吉が作った庭であるので、家康は伏見城から秀吉のにおいを消そうとして、自らお金を出して、その庭を圓徳院に移し、小堀遠州が庭に手を加えたと。それだけ、秀吉や寧々の人気が高く、家康はそれを恐れていたというわけです。
一般的には、家康が寧々と親しくしていたから、寧々に秀吉の菩提を弔うための領地を与え、伏見城の化粧御殿や庭を移転させたというふうに捉えがちですが、住職はそれとは異なる見方をしているということになります。代々の住職が、そういうふうな捉え方をしてきたのかもしれません。
伏見城は秀吉が造った城であり、三成ら奉行衆は政務をスムーズに執り行うために、それぞれ曲輪を与えられていました。三成の曲輪は治部少丸でした。ところが、関ヶ原の戦いの際、伏見城は家康の老臣である鳥居元忠が籠ったため、家康を排除した形での三成らによる新たな豊臣公儀軍は伏見城を攻めなければならなくなりました。そのあたり、三成の胸中には複雑な思いがあったのではないかと思っています。城攻めの末、伏見城は落城し、燃え落ちます。
その伏見城を家康は再建しますが、朝廷対策・豊臣家対策などのための拠点としてその城が必要だったのでしょう、家康も秀忠も伏見城で将軍宣下を受けています。
圓徳院のホームぺージには、「豊臣秀吉の没後、その妻北政所ねねは『高台院』の号を勅賜されたのを機縁に高台寺建立を発願し、慶長10(1605)年、秀吉との思い出深い伏見城の化粧御殿とその前庭を山内に移築して移り住みました。それ以来、大名、禅僧、茶人、歌人、画家、陶芸家等多くの文化人が、北政所を慕って訪れたと伝えられています。ねね58歳の時のことです。これが今日の圓徳院の起こりです」と記されています。
実際に圓徳院が創建されたのはもう少し後のことですが、高台寺の塔頭になっています。伏見城の化粧御殿や前庭が移転されたのは、伏見城が慶長7年に再建されてから3年後のことになります。伏見城が廃城と決められたのは1619年のことですから、それまでは畿内における徳川家の拠点の役目を果たしたわけですが、その中にあって化粧御殿や前庭を家康がわざわざ移転させたのは、秀吉や豊臣家の痕跡を消すためであったという捉え方は納得できます。そうであれば、化粧御殿や前庭は関ヶ原の戦いの前哨戦でも焼けずに残っていた、数少ない遺構であったように思えます。
圓徳院の庭園は伏見城の遺構ですが、もともと秀吉が作った庭であるので、家康は伏見城から秀吉のにおいを消そうとして、自らお金を出して、その庭を圓徳院に移し、小堀遠州が庭に手を加えたと。それだけ、秀吉や寧々の人気が高く、家康はそれを恐れていたというわけです。
一般的には、家康が寧々と親しくしていたから、寧々に秀吉の菩提を弔うための領地を与え、伏見城の化粧御殿や庭を移転させたというふうに捉えがちですが、住職はそれとは異なる見方をしているということになります。代々の住職が、そういうふうな捉え方をしてきたのかもしれません。
伏見城は秀吉が造った城であり、三成ら奉行衆は政務をスムーズに執り行うために、それぞれ曲輪を与えられていました。三成の曲輪は治部少丸でした。ところが、関ヶ原の戦いの際、伏見城は家康の老臣である鳥居元忠が籠ったため、家康を排除した形での三成らによる新たな豊臣公儀軍は伏見城を攻めなければならなくなりました。そのあたり、三成の胸中には複雑な思いがあったのではないかと思っています。城攻めの末、伏見城は落城し、燃え落ちます。
その伏見城を家康は再建しますが、朝廷対策・豊臣家対策などのための拠点としてその城が必要だったのでしょう、家康も秀忠も伏見城で将軍宣下を受けています。
圓徳院のホームぺージには、「豊臣秀吉の没後、その妻北政所ねねは『高台院』の号を勅賜されたのを機縁に高台寺建立を発願し、慶長10(1605)年、秀吉との思い出深い伏見城の化粧御殿とその前庭を山内に移築して移り住みました。それ以来、大名、禅僧、茶人、歌人、画家、陶芸家等多くの文化人が、北政所を慕って訪れたと伝えられています。ねね58歳の時のことです。これが今日の圓徳院の起こりです」と記されています。
実際に圓徳院が創建されたのはもう少し後のことですが、高台寺の塔頭になっています。伏見城の化粧御殿や前庭が移転されたのは、伏見城が慶長7年に再建されてから3年後のことになります。伏見城が廃城と決められたのは1619年のことですから、それまでは畿内における徳川家の拠点の役目を果たしたわけですが、その中にあって化粧御殿や前庭を家康がわざわざ移転させたのは、秀吉や豊臣家の痕跡を消すためであったという捉え方は納得できます。そうであれば、化粧御殿や前庭は関ヶ原の戦いの前哨戦でも焼けずに残っていた、数少ない遺構であったように思えます。
この記事へのコメント