NHKの番組「知恵泉 新春スペシャル」3 寧々は豊臣家の母となって秀頼を守ろうとしたという福田千鶴氏の見解3 人質だった若い秀忠を寧々が世話・後年その恩義に報いる
番組「知恵泉 新春スペシャル」の中で、家康は大坂の陣の後、秀吉を祀る神社(豊国社)を廃絶に追い込み、寧々は家康にプレッシャーを受け続けたが、家康が亡くなると状況が大きく変わったと述べられていました。二代将軍秀忠はかつて人質だった頃、寧々が世話をした人物であり、母親同然に接してくれた寧々に恩義を感じていた秀忠は、寧々の屋敷を訪問したり、書状のやりとりをし、贈り物をしたり。高台寺の領地を増やしたりして寧々を手厚く保護したと説明されていました。
秀忠が初上洛したのは、天正18年(1590)1月のことで、この時、秀忠は12歳、秀吉・寧々にお目見えしています。北条攻めの直前のことでした。番組では秀忠は髪の結い方や装束の着方を寧々に教えてもらったと述べられていました。番組では触れられていませんでしたが、重要な点は、この時、秀忠は秀吉の養女の小督と婚約していることです。秀吉と家康は姻戚関係にありました(家康の正室は秀吉の妹の旭姫)から、秀忠も人実というだけではなく、秀吉や寧々に大事にされたのでしょう。小督は翌年病死しますが、それから4年後、秀忠は淀殿の妹の浅井江と再婚しますが、江は秀吉の養女という立場でしたから、秀忠を重んじる姿勢は並々ならぬものがあったと思われます。秀忠は生涯「秀」の字を使っていることからしても、内心、豊臣家に対する思いは複雑なものがあったのではないでしょうか。
もっとも、番組では晩年、寧々は親しい者に取り囲まれてささやかな幸せを感じていたと説明されていましたが、果たして「ささやかな幸せ」であったかは疑問です。豊臣家が滅亡したという絶望感が生涯消えることはなかったのではないでしょうか。寧々は豊国社を維持管理していましたから、その拠り所だった神社がなくなったことに対する喪失感も大きかったように思われます。むろん、秀吉の菩提を弔う高台寺は残っていましたが、それでかろうじて慰められはしたでしょうが、癒されることはなかったでしょう。
なお、番組では、「寧々」という言い方だったので、拙ブログでもそれを踏襲していますが、福田千鶴氏の著書では「寧」という名前になっています。
秀忠が初上洛したのは、天正18年(1590)1月のことで、この時、秀忠は12歳、秀吉・寧々にお目見えしています。北条攻めの直前のことでした。番組では秀忠は髪の結い方や装束の着方を寧々に教えてもらったと述べられていました。番組では触れられていませんでしたが、重要な点は、この時、秀忠は秀吉の養女の小督と婚約していることです。秀吉と家康は姻戚関係にありました(家康の正室は秀吉の妹の旭姫)から、秀忠も人実というだけではなく、秀吉や寧々に大事にされたのでしょう。小督は翌年病死しますが、それから4年後、秀忠は淀殿の妹の浅井江と再婚しますが、江は秀吉の養女という立場でしたから、秀忠を重んじる姿勢は並々ならぬものがあったと思われます。秀忠は生涯「秀」の字を使っていることからしても、内心、豊臣家に対する思いは複雑なものがあったのではないでしょうか。
もっとも、番組では晩年、寧々は親しい者に取り囲まれてささやかな幸せを感じていたと説明されていましたが、果たして「ささやかな幸せ」であったかは疑問です。豊臣家が滅亡したという絶望感が生涯消えることはなかったのではないでしょうか。寧々は豊国社を維持管理していましたから、その拠り所だった神社がなくなったことに対する喪失感も大きかったように思われます。むろん、秀吉の菩提を弔う高台寺は残っていましたが、それでかろうじて慰められはしたでしょうが、癒されることはなかったでしょう。
なお、番組では、「寧々」という言い方だったので、拙ブログでもそれを踏襲していますが、福田千鶴氏の著書では「寧」という名前になっています。
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