NHKの番組「知恵泉 新春スペシャル」2 寧々は豊臣家の母となって守ろうとしたという福田千鶴氏の見解2 大坂の陣における寧々
NHKの番組「知恵泉 新春スペシャル」で、豊臣秀長と並んで、秀吉夫人の寧々(寧、北政所、高台院)のことも取り上げられていましたが、その続きです。
番組では、寧々が豊臣家、秀頼の存続を第一義に考えていたことを示すものとして、大坂冬の陣の直前、寧々が京から大坂城へ行こうとしていたということが取り上げられていました。すなわち、「時慶卿記」に、「(寧々は)昨日大坂へ下ろうとした。ただし鳥羽まで行って引き返してきた」という記述があり、福田千鶴氏は、この時、家康の手の者によって寧々は足止めを食ったと指摘されていました。寧々が大坂城に入れば、家康に味方している大名たちは豊臣側に寝返る可能性があり、家康は寧々を大坂城に入れることはできないと判断したと。この後、彼女はそのまま軟禁状態に置かれ、「自分は何もできない」という非力を感じたということも福田氏は述べられていました。
さらに翌年の夏の陣の時、大坂落城の知らせを受けた時の寧々の言葉も紹介されていました。伊達政宗宛高台院書状に「大坂のことは何と申せばよいのでしょうか。まったく言葉がありません」という意味のことが記されていると。寧々が生涯をかけて築き上げ守ると決めた豊臣家は、時代の激動の中、露と消えていったと説明されていました。
こういう寧々の立場からすれば、関ヶ原の戦いの際も、二大老・四奉行による、家康を排除した新たな豊臣公儀側に立っていたと考えるのが自然ではないでしょうか。家康方についた京極高次の大津城の開城交渉に、寧々も淀殿も連携して使者を出していることもそうですし、関ヶ原の戦いの直後に、寧々が京都新城から一時御所に逃げ込んでいることもそうです。寧々が家康と親しかったとすれば、そのようなことをする必要はありません。さらには、寧々は三成の三女の辰姫を自分の養女にして津軽藩の信枚に嫁がせています。信枚は後に2代目藩主となり、辰姫は3代目となる信義を生んでいます。もっとも、家康は養女の満天姫を信枚の正室として嫁がせますから、辰姫は側室に降格され、不遇な人生を歩んでいますが。
番組では、寧々が豊臣家、秀頼の存続を第一義に考えていたことを示すものとして、大坂冬の陣の直前、寧々が京から大坂城へ行こうとしていたということが取り上げられていました。すなわち、「時慶卿記」に、「(寧々は)昨日大坂へ下ろうとした。ただし鳥羽まで行って引き返してきた」という記述があり、福田千鶴氏は、この時、家康の手の者によって寧々は足止めを食ったと指摘されていました。寧々が大坂城に入れば、家康に味方している大名たちは豊臣側に寝返る可能性があり、家康は寧々を大坂城に入れることはできないと判断したと。この後、彼女はそのまま軟禁状態に置かれ、「自分は何もできない」という非力を感じたということも福田氏は述べられていました。
さらに翌年の夏の陣の時、大坂落城の知らせを受けた時の寧々の言葉も紹介されていました。伊達政宗宛高台院書状に「大坂のことは何と申せばよいのでしょうか。まったく言葉がありません」という意味のことが記されていると。寧々が生涯をかけて築き上げ守ると決めた豊臣家は、時代の激動の中、露と消えていったと説明されていました。
こういう寧々の立場からすれば、関ヶ原の戦いの際も、二大老・四奉行による、家康を排除した新たな豊臣公儀側に立っていたと考えるのが自然ではないでしょうか。家康方についた京極高次の大津城の開城交渉に、寧々も淀殿も連携して使者を出していることもそうですし、関ヶ原の戦いの直後に、寧々が京都新城から一時御所に逃げ込んでいることもそうです。寧々が家康と親しかったとすれば、そのようなことをする必要はありません。さらには、寧々は三成の三女の辰姫を自分の養女にして津軽藩の信枚に嫁がせています。信枚は後に2代目藩主となり、辰姫は3代目となる信義を生んでいます。もっとも、家康は養女の満天姫を信枚の正室として嫁がせますから、辰姫は側室に降格され、不遇な人生を歩んでいますが。
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