石田三成の実像 4129 木村俊哉氏「石田三成と九州平定」5 天正15年4月段階での秀吉・三成の行動
木村俊哉氏の「石田三成と九州平定」の中で、新出の池田伊予守秀雄宛三成書状について考察されていますが、発給時期について、拙ブログで前述したように、「天正15年5月上旬から中旬」と推定されています。そう推定された根拠として、その前後の三成の行動が挙げられています。
まず4月段階での三成の行動については次のように記されています。
「同年4月19日に秀吉麾下の軍勢が肥後八代入り、20日に肥後願行寺に禁制を発布(『願行寺文書』)、23日に安国寺恵瓊や大谷吉継と共に筑前博多町人の還住を勧め(『原文書』)、26日には堺南北惣中の陣中見舞いに対する礼状(『島津家文書』1196号)を発している。この礼状の中で三成は、『九州過半属御存分』と述べており、九州平定の完了を見据えている」と。
この三成の行動は、中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中に記されていますが、中野氏は「いずれも陣中から遠隔地への指示であり、三成は秀吉の帷幄(本陣)にあって、その命を具体的に遂行していったものであろう」と推定されています。
この時期の秀吉の行動については、藤井譲治氏の「豊臣秀吉の居所と行動(天正10年6月以降)」によれば、次のように記されています(典拠史料も記載されていますが、省略します)。
4月「19日八代着。24日肥後田の浦着。25日肥後佐敷着。26日肥後水又着。27日薩摩出水着」と。
秀吉が日ごとに陣を移動し、薩摩に向かって南下していることがわかります。三成は九州平定に加わりながら、堺奉行としての役目や、荒廃していた博多の復興にも関わっていました。
博多商人の神谷宗湛は、島津攻めをしている秀吉の陣中見舞いのため、秀吉の後を追い薩摩に向かい、4月24日に八代の球磨川のほとりで三成に会い、三成から馬の飼料をもらい、27日に三成のお供をし、薩摩出水に赴き、三成の取りなしで秀吉にお目見えしています。三成が秀吉と相前後しながら同じような行動を取っていることがわかりますし、三成と博多との関わり合いもうかがえます。
まず4月段階での三成の行動については次のように記されています。
「同年4月19日に秀吉麾下の軍勢が肥後八代入り、20日に肥後願行寺に禁制を発布(『願行寺文書』)、23日に安国寺恵瓊や大谷吉継と共に筑前博多町人の還住を勧め(『原文書』)、26日には堺南北惣中の陣中見舞いに対する礼状(『島津家文書』1196号)を発している。この礼状の中で三成は、『九州過半属御存分』と述べており、九州平定の完了を見据えている」と。
この三成の行動は、中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中に記されていますが、中野氏は「いずれも陣中から遠隔地への指示であり、三成は秀吉の帷幄(本陣)にあって、その命を具体的に遂行していったものであろう」と推定されています。
この時期の秀吉の行動については、藤井譲治氏の「豊臣秀吉の居所と行動(天正10年6月以降)」によれば、次のように記されています(典拠史料も記載されていますが、省略します)。
4月「19日八代着。24日肥後田の浦着。25日肥後佐敷着。26日肥後水又着。27日薩摩出水着」と。
秀吉が日ごとに陣を移動し、薩摩に向かって南下していることがわかります。三成は九州平定に加わりながら、堺奉行としての役目や、荒廃していた博多の復興にも関わっていました。
博多商人の神谷宗湛は、島津攻めをしている秀吉の陣中見舞いのため、秀吉の後を追い薩摩に向かい、4月24日に八代の球磨川のほとりで三成に会い、三成から馬の飼料をもらい、27日に三成のお供をし、薩摩出水に赴き、三成の取りなしで秀吉にお目見えしています。三成が秀吉と相前後しながら同じような行動を取っていることがわかりますし、三成と博多との関わり合いもうかがえます。
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