石田三成の実像 4118 白峰旬氏「大谷吉継の南宮山下布陣説についてー『青野ヵ原』合戦の実在性証明へのプロセスとして-」1 根拠は藤堂高虎の家臣の家乗(家の記録)1
通説では、大谷吉継は9月3日頃から関ヶ原の戦い当日まで山中エリアにいたとされていますが、白峰旬氏の「大谷吉継の南宮山下布陣説についてー『青野ヵ原』合戦の実在性証明へのプロセスとして-」(『國史纂集』第27号)の中で、吉継は南宮山下に布陣したという新たな見解が示されています。
通説では、南宮山に陣を置いたのは、吉川広家や毛利秀元らの毛利勢とされていますが、これについても否定的見解が示されています。拙ブログでも、通説通り、広家らは南宮山に布陣したと記してきましたが、白峰氏の同書を読んで、その考えは改めなければならないと思い至りました。
吉継が南宮山下に陣を置いたとする新説の根拠となるのは、関ヶ原の戦いに参戦した藤堂高虎の家臣である藤堂新七郎の家乗(家の記録)です。藤堂新七郎とは、「藤堂新七郎家々譜」によれば、藤堂良勝のことだと説明されています。
上記の史料のうち、「新七郎家乗」の中には「9月15日の合戦の時に大谷吉継が南宮山に布陣していた」(原文は省略します。以下同様)「藤堂新七郎が『城戸口』にて踏みとどまり(大谷吉継の軍勢と)鑓を合わせて、高名をなした」という記載が、また「新七郎家来浜一右衛門覚書」の中には、「浜一右衛門が(大谷吉継の布陣場所である)南宮山の戦いにおいて藤堂新七郎が踏みとどまった時、『北の口』において(大谷吉継の軍勢と)鑓を合わせて、(敵の)首を取った」という記載が、さらに「藤堂姓諸家等家譜集・藤堂新七郎家」の中には「藤堂新七郎が南宮山下に大谷吉継を攻めて、著しく戦功があった」という記載があり、それらの記載について、白峰氏は考察を加えられていますが、それについては後述します。
通説では、南宮山に陣を置いたのは、吉川広家や毛利秀元らの毛利勢とされていますが、これについても否定的見解が示されています。拙ブログでも、通説通り、広家らは南宮山に布陣したと記してきましたが、白峰氏の同書を読んで、その考えは改めなければならないと思い至りました。
吉継が南宮山下に陣を置いたとする新説の根拠となるのは、関ヶ原の戦いに参戦した藤堂高虎の家臣である藤堂新七郎の家乗(家の記録)です。藤堂新七郎とは、「藤堂新七郎家々譜」によれば、藤堂良勝のことだと説明されています。
上記の史料のうち、「新七郎家乗」の中には「9月15日の合戦の時に大谷吉継が南宮山に布陣していた」(原文は省略します。以下同様)「藤堂新七郎が『城戸口』にて踏みとどまり(大谷吉継の軍勢と)鑓を合わせて、高名をなした」という記載が、また「新七郎家来浜一右衛門覚書」の中には、「浜一右衛門が(大谷吉継の布陣場所である)南宮山の戦いにおいて藤堂新七郎が踏みとどまった時、『北の口』において(大谷吉継の軍勢と)鑓を合わせて、(敵の)首を取った」という記載が、さらに「藤堂姓諸家等家譜集・藤堂新七郎家」の中には「藤堂新七郎が南宮山下に大谷吉継を攻めて、著しく戦功があった」という記載があり、それらの記載について、白峰氏は考察を加えられていますが、それについては後述します。
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