石田三成の実像 4117 三浦正幸氏の講演「開戦前から決していた関ヶ原の勝敗〜美濃・尾張12城の調略と落城〜」10 菩提山城とその支城の玉城

 三浦正幸氏の講演「開戦前から決していた関ヶ原の勝敗〜美濃・尾張12城の調略と落城〜」の中で、犬山城に援軍として籠城していた竹中重門が、家康方に付いたことによって、大垣城の西にある、重門の居城の菩提山城も、三成方(豊臣公儀方)諸将にとって敵に回った形になると説明されていました。もっとも、城自体は小規模なものだということでしたが。
 注目したのは、関ヶ原町にある玉城が、菩提山城の支城であり、竹中重門が文禄・慶長年間(1592~1600)に築城したものであり、近江からの侵攻を防ぎ、領地の境を守るための縄張りがされているとの説明があったことです。玉城の縄張図もレジュメに掲載されていましたが、本丸だけの単郭の山城であり、本丸をぐるりと取り囲んでいる腰曲輪は、ところどころ竪堀で分断されていて、西側にある堀切と竪堀は堀障子で区切られていると説明されていました。レジュメに縄張図が掲載されていたので、そのことがよく確認できました。もっとも、玉城は小規模なため、関ヶ原の戦いでは使用されなかったと指摘されていました。
 一方、千田嘉博氏は、この玉城は三成方が、秀頼の本陣として造ったものではないかという新たな見解を示されています。この新説については、水野伍貴氏が否定的見解を示され、拙ブログでも前述しました。
 私自身は、千田氏の新説を知って、玉城が秀頼の本陣というのはありえないと思いながらも(大坂城の秀頼が出陣するというのは考えられませんから)、白峰旬氏や高橋陽介氏が指摘されたように、関ヶ原の戦いが山中エリアを主戦場として行われたとすれば、玉城も使われた可能性があるのではないかと考えました。しかし、関ヶ原の戦いは決戦ではなく、追撃戦だったという白峰氏の最新の見解を知って、もしそうならば、奥まったところにある玉城を使う余裕はなかったのではないかとも考えるようになりました。もっとも、三成方(豊臣公儀方)が関ヶ原方面での決戦もあらかじめ選択肢の一つとして想定していたとするなら、この玉城も布陣場所として考えていた可能性もあります。玉城が竹中氏の支城であったとするなら、最初、竹中氏は豊臣公儀方でしたから、玉城の存在を豊臣公儀方はよく知っていたのではないでしょうか。
 千田氏は玉城が大規模な城だったと指摘されているのに対して、三浦氏は小規模だったと捉えられていますから、実際、そのあたりもどうなのか気になります。

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