石田三成の実像 4116 三浦正幸氏の講演「開戦前から決していた関ヶ原の勝敗〜美濃・尾張12城の調略と落城〜」9 犬山城開城 (付記)城主の石川貞清は三成と懇意

 三浦正幸氏の講演「開戦前から決していた関ヶ原の勝敗〜美濃・尾張12城の調略と落城〜」の中で、犬山城の状況についても説明されていました。犬山城の城主は石川光吉(貞清)で、三成方(豊臣公儀方)でしたが、岐阜城が落城したことによって、援軍として犬山城に籠城していた竹中重門らが家康方に寝返り、光吉は城を抜け出したため、9月3日に開城します。福束城をはじめとする輪中地域の城の落城・開城、岐阜城の落城、犬山城の開城と、雪崩をうったように美濃の諸城が、家康方の手に落ちてゆく状況がよくわかりました。竹中重門の寝返りも少なからぬ影響を与えたのですが、そのことについては後述します。
 石川貞清については、「別冊宝島 悲劇の智将 石田三成」の中で、次のように説明されています。
 「これまで、石田三成の娘婿とされてきたが、近年の研究では正室は大谷吉継の妹である可能性が高いという。父の光重の代より秀吉に仕え、親子ともに三成とは懇意で、三成は貞清の後見人的立場であったと考えられる」と。
 石田家、大谷家、真田家、石川家、宇多家(三成の妻は宇多頼忠の娘)は姻戚関係にあり、固く結ばれていました。その関係者の多くは、関ヶ原の戦いの際、豊臣公儀方に属しています。石川貞清も犬山城から脱出した後、三成と合流し関ヶ原の戦いに参戦しています。
 それはともかく、犬山城の開城も、豊臣公儀方にとっては、大きな痛手であり、大垣城の孤立化がますます進んでいったわけです。むろん、この頃には北国方面軍や伊勢方面軍が美濃方面にぞくぞくと集結してきましたから、三成らは少しは安堵したと思われますが、それでも兵力数で互角という状況ではなく、また吉川広家らの伊勢攻めにおける消耗度が大きく美濃方面で満足に戦える状態ではなく(それが家康側との勝手な和睦につながったとする見解があります)、美濃における劣勢は否めず、決して楽観はできませんでした。

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