十年前の巻雲短歌会会誌一四二号の会員作品「巻雲集」評5 原爆を用ひし国と落とされし国

○運転手を待たせて僧侶は足早に棚経を終へそそくさと去る(H)
○原爆を用ひし国と落とされし国の討論はてなく続く(M)
 
全く趣向の異なる作品だが、両者とも今の世相をよく表している。
 前者の歌は、今どきの僧侶の姿を詠んだものだが、むろん、このような僧侶はごく少数であり、大半の僧侶は立派な宗教者である。この歌の僧侶も仕事が立て込んでいて掛け持ちだったのかもしれない。しかし、こういう事務的な読経の仕方は遺族の気持ちを逆なでにするもので、作者もその姿勢に疑問を感じたから、こういう歌を詠んだのであろう。私も亡父の納骨の際、代理の僧侶だったため、墓の場所をあらかじめ伝えてあったにもかかわらず、道に迷って大幅に待たされたことがあり、遅刻のお詫びの言葉すらなかった。その僧侶は若かったが、この歌の場合はどうだろう。僧侶のあるべき姿について考えさせられた作品である。  
  後者の歌は、アメリカ人と日本人による原爆投下に関する議論の様子を詠んだものだが、「原爆を用ひし国」と「落とされし国」という表現にしているところが秀逸であり、問題の根深さというものが浮き彫りになっている。アメリカ側は原爆投下を戦争を早く終わらせようとするために必要なものだったという主張を変えていないのに対して、原爆を落とされ甚大な被害が出た日本側、特に被害者団体などは、原爆投下という非人道的な行為を非難し、謝罪を要求している。両者の隔たりは大きく、この歌の結句の表現からも、埋まらぬ溝の大きさにどうしようもない諦めに似た気持ちになっていることがうかがえる。もっとも、議論を重ねることによって、ほのかな希望を持ちたいという思いがこもっているようにも感じられる。

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