十年前の巻雲短歌会会誌一四二号の会員作品「巻雲集」評4 思い出を詠んだ歌
○石だたみの亡父の歩みし道歩む一足二足想ひ出たどり(S)
○写真見て老けたる姿が気に掛かる「元気でまたな」と別れし旧友(T)
○時代劇減りて淋しと懐かしむ幼き頃のチャンバラの世界(T)
いずれも思い出というものが共通した題材となっている。
一首目の歌は、「亡父」の歩んだ石畳道の思い出をたどりながら歩く様子を詠んだものだが、「一足二足」という表現が何といっても効果的である。一足ごとに父との思い出がよみがえってくるのであって、石畳をいとおしむように踏みしめて行ったさまが想像される。「亡父」への思いがしみじみと伝わってきて、哀愁感が漂う作品となっている。
二首目の歌は、上の句の写真の老けた旧友の姿と、下の句の、元気で別れた時の旧友の姿が対照的で、その落差の大きさに、旧友に一体、その間何があったのかといろいろ考えさせられる味わい深い作品である。上の句と下の句にどれぐらいの年数の経過があったのかも知りたいところだが、それが表現されていないところに、かえって歌の奥行き、深みが生まれている。旧友と作者の間には、それまでもさまざまな思い出が詰まっているのだろうが、この歌の場合は、最後に会って別れた時の姿のみが歌われており、それがまるでドラマのワンシーンのように読者の目に浮かんでくる。旧友のことを心配している作者の思いがよく感じられる。この歌にもやはり哀愁のようなものが漂っている。
三首目の歌は、時代劇がテレビや映画であまり見られなくなったことを淋しく思い、チャンバラごっこをして遊んだ頃を懐かしく思い出すというものだが、私もこの作品に深く共感した。私にとっても、チャンバラごっこは子供の頃に興じた遊びの一つだった。かつて時代劇を量産してきたのは京都の太秦で、長年培ってきたその技術や伝統が継承されずにすたれてしまうのではないかという危惧の念を覚える。京都の華やかなりし時代劇の火を再び灯してほしいと願っている。それは単なる郷愁の思いからではなく、日本の古き良き伝統文化をなくしてほしくないという切なる願いからである。
○写真見て老けたる姿が気に掛かる「元気でまたな」と別れし旧友(T)
○時代劇減りて淋しと懐かしむ幼き頃のチャンバラの世界(T)
いずれも思い出というものが共通した題材となっている。
一首目の歌は、「亡父」の歩んだ石畳道の思い出をたどりながら歩く様子を詠んだものだが、「一足二足」という表現が何といっても効果的である。一足ごとに父との思い出がよみがえってくるのであって、石畳をいとおしむように踏みしめて行ったさまが想像される。「亡父」への思いがしみじみと伝わってきて、哀愁感が漂う作品となっている。
二首目の歌は、上の句の写真の老けた旧友の姿と、下の句の、元気で別れた時の旧友の姿が対照的で、その落差の大きさに、旧友に一体、その間何があったのかといろいろ考えさせられる味わい深い作品である。上の句と下の句にどれぐらいの年数の経過があったのかも知りたいところだが、それが表現されていないところに、かえって歌の奥行き、深みが生まれている。旧友と作者の間には、それまでもさまざまな思い出が詰まっているのだろうが、この歌の場合は、最後に会って別れた時の姿のみが歌われており、それがまるでドラマのワンシーンのように読者の目に浮かんでくる。旧友のことを心配している作者の思いがよく感じられる。この歌にもやはり哀愁のようなものが漂っている。
三首目の歌は、時代劇がテレビや映画であまり見られなくなったことを淋しく思い、チャンバラごっこをして遊んだ頃を懐かしく思い出すというものだが、私もこの作品に深く共感した。私にとっても、チャンバラごっこは子供の頃に興じた遊びの一つだった。かつて時代劇を量産してきたのは京都の太秦で、長年培ってきたその技術や伝統が継承されずにすたれてしまうのではないかという危惧の念を覚える。京都の華やかなりし時代劇の火を再び灯してほしいと願っている。それは単なる郷愁の思いからではなく、日本の古き良き伝統文化をなくしてほしくないという切なる願いからである。
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