石田三成の実像 3975 関ヶ原の戦いの新説についての鳥越九郎さんからの否定的見解に対する私の返答2
鳥越九郎氏より、関ヶ原の戦いの新説について、さらなるコメントをいただきました。その返答内容についても拙ブログ記事の方に載せたいと思います。次のような内容です(一部省略)
鳥越九郎さん、大谷吉継が不破の関付近で亡くなったという論拠、よくわかりました。不破の関一帯も当時は山中村であったというご指摘には、納得しましたし、よく調べられていることに敬服しました。白峰氏の布陣図は、「関ヶ原の戦い(山中の戦い)概要図」を使われているのですね。確かに、それによると、小早川秀秋は通説では脇坂安治が布陣したとされる小高い丘に布陣し、関ヶ原エリアに布陣していた大谷吉継を背後から攻撃したというのが白峰氏の見解ですから、大谷が不破の関に布陣していたとなると、地図から見て側面攻撃になります。白峰氏の想定からすれば、不破の関よりももっと前方に大谷は布陣していたのではないでしょうか。通説では福島正則が布陣していたとされる場所あたりまで。そうしないと背後からということにならないと思います。それに、不破の関では、山中主力部隊とあまり離れていず、二段階戦闘にはならないのではないかという気がしています。現在の家康方武将の陣跡は確かな根拠がありませんし、絶えず移動していたのが実情だったように思います。小早川が布陣していた場所が当時は山中村であったとしても、そこから大谷のいる関ヶ原エリアまで攻め込んでいったのではないでしょうか。私は今のところ、そのように考えているのですが、このあたり、ご意見がございましたら、お願いします。
鳥越九郎さん、大谷吉継が不破の関付近で亡くなったという論拠、よくわかりました。不破の関一帯も当時は山中村であったというご指摘には、納得しましたし、よく調べられていることに敬服しました。白峰氏の布陣図は、「関ヶ原の戦い(山中の戦い)概要図」を使われているのですね。確かに、それによると、小早川秀秋は通説では脇坂安治が布陣したとされる小高い丘に布陣し、関ヶ原エリアに布陣していた大谷吉継を背後から攻撃したというのが白峰氏の見解ですから、大谷が不破の関に布陣していたとなると、地図から見て側面攻撃になります。白峰氏の想定からすれば、不破の関よりももっと前方に大谷は布陣していたのではないでしょうか。通説では福島正則が布陣していたとされる場所あたりまで。そうしないと背後からということにならないと思います。それに、不破の関では、山中主力部隊とあまり離れていず、二段階戦闘にはならないのではないかという気がしています。現在の家康方武将の陣跡は確かな根拠がありませんし、絶えず移動していたのが実情だったように思います。小早川が布陣していた場所が当時は山中村であったとしても、そこから大谷のいる関ヶ原エリアまで攻め込んでいったのではないでしょうか。私は今のところ、そのように考えているのですが、このあたり、ご意見がございましたら、お願いします。
この記事へのコメント
御質問いただきありがとうございます。
まずご了解いただきたいのは私は山中主力合戦説も早朝も含めた2段階合戦説も首肯しがたい説だと思っていますので、あくまでもその説の前提となる部分がある程度正しかったらという仮定での回答になりますので、その点はご寛恕お願いいたします。
小早川軍が通説の脇坂陣に布陣していたとして不破の関の大谷軍を攻撃の場合は不破の関は戦場を北西から南東に斜め方向に流れている藤川沿いを西側とし、少し距離を置いた対岸に小早川陣があったことになります
必然的に小早川軍も川沿いに展開することになり大谷軍は藤堂、京極などの
敵軍側を向いていたでしょうから後方、背後から攻めかけられたとしても
特に矛盾はないと思います、少なくとも腹背という表現は許されると思います。
不破の関より前方に大谷軍は布陣したのではないかという点ですが
2023年、2024年の不破の関発掘調査で川を背にした西側以外の北、東、南の三方は土塁で囲まれていたことが分かっています、つまり天然の要害として
利用でき、ここに布陣せずに前方の平坦な通説福島陣部分まで進出する理由があるでしょうか、突出しすぎで包囲殲滅されるのは目に見えてます。
白峰氏自身も9月20日近衛前久書状を根拠に小早川秀秋は大谷吉継の直近に布陣していたとされています(関ケ原大乱、本当の勝者313P,322Pの2箇所)、白峰氏の通説の脇坂陣に小早川軍布陣説を前提にしても大谷軍は不破の関に布陣でよいと思います)
不破の関では、山中主力部隊とあまり離れていず、二段階戦闘にはならないの部分はその通りで、だからこそ2段階戦闘説は成立しないと思います。
当日霧が深く午前10時かその少し前あたりまで視界が悪かった状況で
小競り合いや抜け駆け、威嚇、偵察射撃程度ならともかく部隊を挙げての戦闘を開始するとは思えず、仮に大谷陣が早朝攻撃を受けたのであれば
西軍主力部隊が大谷が戦死するまで見殺しにするはずがなく霧の中での
主力戦が開始されたでしょう。仮に不破の関よりも大谷軍が突出していたとしても同様だと思います。
あとこれは白峰氏ではなく何かのブログか動画で見たのだと思いますが
霧が深かったので戦闘に気が付かず大谷を見殺しにしてしまったという
奇説?がありましたが見えなくても火縄銃の轟音や鬨の声などに気が付かない筈もなく成立しがたい説です。
他に西軍布陣は通説通りで大谷は山中陣から動いておらず小早川に早朝攻め込まれ壊滅した、西軍の他の陣から山中陣は見えないので気が付かなかったという野村玄氏の2段階合戦説もありますが同じ理由で成立しない説だと思います。
史料上でも合戦開始後小早川寝返りから西軍総崩れという流れとしか看取出来ないものが多く、早朝に家康の戦闘命令があったとか合戦が開始されたというものはありますが2段階戦闘の根拠となる史料は寡聞にして存じません
1,家康の小早川秀秋宛書状、2,小早川秀秋家臣宛書状も関ケ原で合戦のあった事はわかりますが早朝開始や2段階合戦をうかがえる記述はなく根拠にはならないと思います。
あとこれはご質問いただいた内容ではないですが、陣中には当地の領主竹中重門や美濃の稲葉氏などもいましたので家康は正確な地名を知ることは容易で合戦場から直ぐにしたためた政宗宛書状の山中から2日後には関ケ原と変更
されたのはこうした背景もあったと思います。
軍事的見地から見ても山中エリアに密集して布陣した場合、中山道は守れますが北國脇往還(北國街道)ががら空きになり、この道は中山道よりは迂回で山道になるとはいえ長浜まで直行でき佐和山まで指呼の間です、岐阜落城の3日後に佐和山城の防備を固めるためか帰城した三成や西軍諸将がそんな布陣をするでしょうか、北國街道には西軍が設けたと思われる土塁跡も残っており西軍にとっては中山道に次いで死守すべき場所だったと思います。
あと大勢が決した後に三成、行長、秀家は伊吹山のほぼ同じルートに落ちていきましたが(特に行長と秀家)山中エリアに布陣していたのであれば
伊吹山にたどり着くためには島津軍のように敵中突破しなくてはならず
第二陣、後軍だったため軍勢の損傷はあまりなかった島津とは違い
軍勢は壊乱している状態の3家にそんなことが可能だったのでしょうか
やはり通説の場所とは若干の相違はあるにしても関ケ原エリアに
3将は布陣していたのだと思います。(宇喜多勢は大部分が関ケ原村に布陣
ですが藤下で福島勢と戦闘した右翼部隊のみは山中村に布陣)
通説よりも短時間で決着、小早川は主力戦開始後早い段階で寝返りという新説はその通りだと思いますが、2段階合戦説と山中主力布陣説は史実ではないと思います。