石田三成の実像 3972 関ヶ原の戦いの新説についての鳥越九郎さんからの否定的コメントに対する私の返答1 

 関ヶ原の戦いの新説について、鳥越九郎さんからご丁寧なコメントをいただきました。論点がいろいろあり、貴重なご意見でもありますので、拙ブログ記事の方でも取り上げ、この問題をさらに考えていきたいと思います。
 鳥越九郎さんのコメントに対する私の返答は次のようなものです。

 私の認識不足かもしれないのですが、関ヶ原の戦いが二段階にわたって行われたと指摘されているのは白峰旬氏で、高橋陽介氏はそうではなかったのではないでしょうか。高橋氏は山中エリアで戦いが行われたという考えだと認識しています。高橋氏は大谷吉継が山中エリアに陣を置いており、そこで東から攻めてくる家康方軍勢と戦ったと。三成が自害峯に陣を置いたとするのは、鳥越氏のご指摘の通り、編纂史料に基づくものであり、私もその点は前々から引っかかり、拙ブログでもその記述を裏付ける他の史料の発掘が望まれるというようなことを書きました。高橋氏による、他の三成方武将の布陣図にしても、三成が自害峯に陣を置いたことからの類推ではないかと思われ、本当に各武将がその位置に布陣したのか、これもそれを裏付ける他の史料の提示が必要ではないかと思われます。そういう点では、鳥越氏のご指摘の通り、高橋氏の見解は確かに今のところ根拠に乏しいのではないかと言えると思います。
 一方、白峰氏は三成方武将らが山中エリアのどこに布陣したのかについては明らかにされていませんが、幅広いエリアに布陣したのではなく、ある程度密集して布陣していたと指摘されていますので、従来の布陣のイメージとは全く異なる姿ではないでしょうか。白峰氏は最近、関ヶ原の戦いが追撃戦ではなかったかという新たな見解を示しておられますので、関ヶ原の戦いの様相がすっかり変わってしまうのではないかという思いを持っています。
 なお、白峰氏は山中エリアにいた大谷吉継が主力部隊とは離れて関ヶ原エリアへ移動して、早朝に家康方軍勢と小早川秀秋に挟撃されたという見解を示されています。鳥越氏が指摘されるような、大谷吉継が不破の関あたりで戦死したという見解を白峰氏はどこかで示しておられるのでしょうか。私は寡聞にして知らないのですが。
 一口に新説といっても、白峰氏と高橋氏は見解に大きな違いがあるように思います。
 鳥越氏が取り上げられている、関ヶ原の戦い直後の、家康方武将らの書状や、島津家家臣史料に出てくる岡・池などの記述についても、改めて取り上げたいと思います。

この記事へのコメント

鳥越九郎
2025年05月31日 02:23
石田世一様

拙文をお取り上げいただきありがとうございます。
白峰氏の提唱された2段階合戦説を高橋氏も支持されているとの文章を
何かで見た記憶があるのですが山中布陣説を支持されているとの記憶違いか、あるいは2段階合戦説を支持されている野村玄氏と間違えたのかもしれません。

白峰氏の想定される西軍布陣はこの論文に掲載されてますが
http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/sg04610.pdf?file_id=8222
この図からすると石田、宇喜多、小西、島津勢は元々大谷の布陣していた
山中の陣付近一帯、小早川は通説で脇坂、朽木等の布陣したとされる岡の
辺り、大谷は不破の関一帯と思われますし、論文にも
<開戦時には小早川秀秋が松尾山の山上(松尾山城)に布陣していたのではなく、松尾山の前に位置する小高い岡(通説の布陣図で脇坂安治などの諸将が布陣したとされている位置〔現岐阜県不破郡関ヶ原町藤下〕)まで移動して布陣した可能性を示している>

<大谷吉継が最前線のかなり突出した位置、つまり、北国から着陣した当初の山中エリア(現岐阜県不破郡関ヶ原町山中)から東方(前方)に移動し、関ヶ原エリアに進出して布陣していたことを示している。通説による
従来の解釈のように、大谷吉継は通説の布陣図で示されている松尾山の麓に近い位置(最前線からはかなり離れた後方の位置)に開戦時までずっととどまって動かずに布陣していたのではなく、石田三成方軍勢の主力本隊(石田三成、宇喜多秀家、小西行長、島津豊久、島津義弘など)が大垣城を出て、山中エリアに着陣>
とあるように石田ら主力勢の布陣する山中エリアとは元の大谷陣のあった
(現岐阜県不破郡関ヶ原町山中)を指すようです、早朝の大谷陣については
明確な記載がないようですが藤下より東軍寄りの最前線とすると不破の関一帯と推定できると思います。

白峰氏の想定布陣図の小早川陣は関ケ原エリアとなっており
〔現岐阜県不破郡関ヶ原町藤下〕は現在は関ケ原町ですが
1597年の関原村検地帳(関ケ原町史資料編収録)に含まれておらず
寛永二年(一六二五)の竹中重門宛徳川家光朱印状(竹中文書)には山中村内藤下村六四四石余とあり山中村であることは明らかで不破の関一帯も
当時は山中村で白峰氏の説通り2段階で合戦があったとしても
小早川は早朝関ケ原エリアまで進出してなかったと比定できると思います。
石田世一
2025年06月04日 17:13
鳥越九郎さん、大谷吉継が不破の関付近で亡くなったという論拠、よくわかりました。不破の関一帯も当時は山中村であったというご指摘には、納得しましたし、よく調べられていることに敬服しました。白峰氏の布陣図は、「関ヶ原の戦い(山中の戦い)概要図」を使われているのですね。確かに、それによると、小早川秀秋は通説では脇坂安治が布陣したとされる小高い丘に布陣し、関ヶ原エリアに布陣していた大谷吉継を背後から攻撃したというわけですから、大谷が不破の関に布陣していたとなると、地図から見て側面攻撃になります。白峰氏の想定からすれば、不破の関よりももっと前方に大谷は布陣していたのではないでしょうか。通説では福島正則が布陣していたとされる場所あたりまで。そうしないと背後からということにならないと思います。それに、不破の関では、山中主力部隊とあまり離れていず、二段階戦闘にはならないのではないかという気がしています。現在の家康方武将の陣跡は確かな根拠がありませんし、絶えず移動していたのが実情だったように思います。小早川が布陣していた場所が当時は山中村であったとしても、そこから大谷のいる関ヶ原エリアまで攻め込んでいったのではないでしょうか。私は今のところ、そのように考えているのですが、このあたり、ご意見がございましたら、お願いします。
 なお、鳥越様のこのコメント内容も拙ブログで取り上げさせていただきますので、合わせてよろしくお願いします。他の方のご意見もいただければと思っています。今後、さらに考察を深めていくことができれば、幸いです。