石田三成の実像 3967 関ヶ原の戦いをめぐる議論 通説と新説5 戦いが行われた場所は関ヶ原エリアか山中エリアか5 通説擁護派の太田浩司氏の見解

関ヶ原の戦いの主戦場は山中エリアであり、山中での三成方軍勢の新たな布陣図を提示されている白峰旬氏や高橋陽介氏らの新説に対して、関ヶ原の戦いの布陣図は、通説通りのままでよいとする研究者も多く、通説には根強いものがあります。通説擁護派の一人の太田浩司氏は慶長5年9月17日付の吉川広家自筆書状案の見せ消ちの部分に注目され、その内容について次のように記されています。
 「東軍の軍勢を『二手』に分けたと記し、その一手が『山中』に押し入ったとしている。(中略)この押し入った軍隊が、徳川家康が主力と判断していた福島正則と黒田長政の軍で、(中略)両使(福島と黒田からの使者)の返答によれば、さらにそのあとから加藤嘉明と藤堂高虎が続いたとされる」と。
 太田氏は家康方軍勢が「山中村を突破して中山道を通」る部隊と、「北国街道を守っていた三成本隊に向かった部隊」との二手があったと指摘されています。その根拠として上記の吉川書状案の見せ消ちの部分と、戦いの翌日の16日の近江侵攻の際、「二手に分かれて『乱入』し、吉川は『北口之手』を任された」という記述とが照応していることが挙げられています。こういう論法からすれば、通説通り、北国街道と中山道を守る二手で戦いが行われたことになります。
 しかし、見せ消ちの部分は、抹消された部分ですから、その記述をそのまま信用してよいのかという疑問が残ります。家康方軍勢が二手に分かれて三成方軍勢と戦ったことを示す別の史料の発掘が望まれます。白峰氏は戦いがまず関ヶ原エリアで行われ、その後、山中エリアが主戦場になったと指摘されていますが、家康方軍勢が二手に分かれたわけではありません。最初は早朝の戦いであり、その戦いで大谷吉継隊が家康方軍勢と、裏切った小早川秀秋隊に挟撃されて壊滅し、その後10時頃に山中エリアで三成方の主力部隊が家康方軍勢と戦って敗れたという見解ですから、家康方軍勢は関ヶ原エリアから山中エリアへ転戦したことになります。通説のような北国街道付近の戦いはなかったわけです。

この記事へのコメント

鳥越九郎
2025年05月26日 23:39
白峰氏、高橋氏の提唱される山中主戦場説と早朝と午前10時ころの2段階
戦闘説ですが、どうも根拠が弱く他の諸条件から見ても成立しがたい
説ではないかと思います。

まず根拠となる史料の戸田左門覚書の三成自害峰布陣ですが
この史料は後年編纂の二次史料で著者の戸田左門は秀忠軍所属で現場に
いたわけではなかったこと、史料自体に誤りが多く、同じ後年の二次史料の
板坂卜斎の慶長記(家康軍に所属)と比べても信憑性が著しく落ちること
三成自害峰布陣の記述が他の史料に全く見られないというのが一つ

山中説の根拠とされる家康→政宗の合戦当日書状及びこの書状を9月30日
受け取った伊達政宗同日書状2通、徳川家よりの速報を受け取ったとみられる
合戦には従軍していない9月19日保科正光書状、9月25日結城秀康書状(井伊直政寄りの書状の返書)、9月17日吉川広家書状案位で合戦直後は
山中という認識だったと思われますが、家康も吉川広家もこれ以降は
関ケ原としており(家康→小早川秀秋9月24日、9月27日書状、吉川広家
後年の覚書、吉川家文書917号)、他にも9月17日石川,彦坂書状、9月19日
小早川書状、浅野長政書状、9月22日細川忠興書状他、9月の当時九州にいた
細川家家老書状、加藤清正書状2通、10月10日島津義弘書状2通がすべて
関ケ原としており早い段階で関ケ原が主戦場という認識に改められているというのが2つ目

山中説ですと山中に布陣していた島津義弘が関ケ原と記述したり
山中の西軍に攻めかかった筈の細川忠興が関ケ原としていることになります
早朝に関ケ原の大谷陣に攻めかかった小早川秀秋が関ケ原と記述しているのは白峰氏の2段階合戦説であればそのとおりながら
白峰氏の勘違いなのか大谷が山中から進出し不破の関あたりに布陣し戦死したのは事実だと思いますが関ケ原町との境目ではありますが不破の関あたりは山中村で、そもそも白峰氏の早朝の関ケ原合戦説は成立しないことになります。

後西軍の主戦場での軍勢は通説よりも少ない可能性がありますが、それでも
2万以上3万未満はあったと思われ、現地に行ってみればわかる通り
山中エリアの狭隘な地形でそれほどの軍勢が密集しても布陣するのは不可能で後年の島津家従軍兵士の覚書でも石田陣と島津陣まで現在で164メートルほどの間隔があったとか、島津陣と宇喜多陣の間に池や岡があったと記されており、一定の間隔を置いて布陣していたことがうかがえ山中エリアに密集しての布陣は成立しないと思われます。

石田世一
2025年05月30日 17:24
鳥越九郎さん、ご丁寧なコメント、ありがとうございます。論点がいろいろあり、貴重なご意見でもありますので、詳しくは拙ブログ記事の方で、この問題をさらに考えていきたいと思います。私の認識不足かもしれないのですが、関ヶ原の戦いが二段階にわたって行われたと指摘されているのは白峰旬氏で、高橋陽介氏はそうではなかったのではないでしょうか。高橋氏は山中エリアで戦いが行われたという考えだと認識しています。高橋氏は大谷吉継が山中エリアに陣を置いており、そこで東から攻めてくる家康方軍勢と戦ったと。三成が自害峯に陣を置いたとするのは、ご指摘の通り、編纂史料に基づくものであり、その記述を裏付ける他の史料の発掘が望まれるというようなことを拙ブログでも書きました。高橋氏による他の三成方武将の布陣図にしても、自害峯からの類推ではないかと思われ、やはりその布陣を裏付ける他の史料の提示が必要ではないかと思います。そういう点では確かに根拠に乏しいと言えます。
 一方、白峰氏は山中エリアのどこに布陣したのかについては明らかにされていませんが、幅広いエリアに布陣したのではなく、ある程度密集して布陣していたと指摘されていますので、従来の布陣のイメージとは全く異なる姿ではないでしょうか。白峰氏は最近、関ヶ原の戦いが追撃戦ではなかったかという新たな見解を示しておられますので、関ヶ原の戦いの様相がすっかり変わってしまうのではないかという思いを持っています。なお、白峰氏は山中エリアにいた大谷吉継が主力部隊とは離れて関ヶ原エリアへ移動して、早朝に家康方軍勢と小早川秀秋に挟撃されたという見解を示されています。大谷吉継が不破の関あたりで戦死したという見解を白峰氏はどこかで示しておられるのでしょうか。
 一口に新説といっても、白峰氏と高橋氏は見解に大きな違いがあるように思います。
 書状や岡・池などについては、拙ブログの方で取り上げますので、よろしくお願いします。