石田三成の実像 3936 竹井英文氏「なぜ家康は江戸に入ったのか?」2 豊臣政権の街道整備1 秀吉は江戸を経由して宇都宮ヘ
竹井英文氏の「なぜ家康は江戸に入ったのか?」の中で、家康が江戸に入った前後の当時の政治状況について明らかにされていますが、「秀吉の会津出陣と、それに伴う大規模な街道整備命令」に注目されています。
それに関連して、天正18年7月6日付の増田長盛書状が取り上げられていますが、その内容について次のように説明されています。
「まず秀吉が会津へ出陣するに当たって、江戸を経由することが記されている。小田原から江戸を経由して会津へ向かおうとしていることがわかる。さらに、江戸からまずは宇都宮へ向かうことになるのだが、宇都宮へと至る街道が二本あるとしている。そして、その二本の街道のうちの一本は、『東とおり』と呼ばれているので、もう一本は『西とおり』と呼ばれていたものと考えられる。ここから、当時の江戸は、南関東から北関東、さらには奥羽方面へと向かう際の陸上交通の一大中継地となっていたことがわかる」と。
家康が江戸に入ったのは7月下旬だということも竹井氏の同書に記されていますが、この点について、相田文三氏の「徳川家康の居所と行動(天正10年6月以降)」の中では、家康は天正18年7月「16日には江戸へ向け、小田原を発って柳嶋へ向かい、18日には江戸に到着した。その後は江戸に滞在し、新領国の経営に乗り出す」などと記されています。これらの家康の居所の典拠は「家忠日記」です。竹井氏が7月下旬だと指摘されている根拠が何であるかは記されていないので、よくわかりません。
それはともかく、上記の長盛書状から、家康が江戸に着く前から、豊臣政権が関東・奥羽へ向かう中継地としての江戸に注目していたことがわかるわけです。実際に、秀吉は江戸を経由して、宇都宮に向かっています。この点について、藤井讓治氏の「豊臣秀吉の居所と行動(天正10年6月以降)」の中で、秀吉は天正18年7月「17日小田原発」「鎌倉を経て江戸へ」「19日江戸着」「20日江戸発」「26日宇都宮着」などと記されています。
ちなみに、この時の三成の居所について、中野等氏の「石田三成伝」には「武州忍を開城させた三成は、北上する秀吉の本隊に合流し、前後して宇都宮に入ったものであろう」と記されています。忍城の開城は16日のことで、三成がどこで秀吉に合流したかはわかりませんが、江戸を経由したわけではないものと思われます。
それに関連して、天正18年7月6日付の増田長盛書状が取り上げられていますが、その内容について次のように説明されています。
「まず秀吉が会津へ出陣するに当たって、江戸を経由することが記されている。小田原から江戸を経由して会津へ向かおうとしていることがわかる。さらに、江戸からまずは宇都宮へ向かうことになるのだが、宇都宮へと至る街道が二本あるとしている。そして、その二本の街道のうちの一本は、『東とおり』と呼ばれているので、もう一本は『西とおり』と呼ばれていたものと考えられる。ここから、当時の江戸は、南関東から北関東、さらには奥羽方面へと向かう際の陸上交通の一大中継地となっていたことがわかる」と。
家康が江戸に入ったのは7月下旬だということも竹井氏の同書に記されていますが、この点について、相田文三氏の「徳川家康の居所と行動(天正10年6月以降)」の中では、家康は天正18年7月「16日には江戸へ向け、小田原を発って柳嶋へ向かい、18日には江戸に到着した。その後は江戸に滞在し、新領国の経営に乗り出す」などと記されています。これらの家康の居所の典拠は「家忠日記」です。竹井氏が7月下旬だと指摘されている根拠が何であるかは記されていないので、よくわかりません。
それはともかく、上記の長盛書状から、家康が江戸に着く前から、豊臣政権が関東・奥羽へ向かう中継地としての江戸に注目していたことがわかるわけです。実際に、秀吉は江戸を経由して、宇都宮に向かっています。この点について、藤井讓治氏の「豊臣秀吉の居所と行動(天正10年6月以降)」の中で、秀吉は天正18年7月「17日小田原発」「鎌倉を経て江戸へ」「19日江戸着」「20日江戸発」「26日宇都宮着」などと記されています。
ちなみに、この時の三成の居所について、中野等氏の「石田三成伝」には「武州忍を開城させた三成は、北上する秀吉の本隊に合流し、前後して宇都宮に入ったものであろう」と記されています。忍城の開城は16日のことで、三成がどこで秀吉に合流したかはわかりませんが、江戸を経由したわけではないものと思われます。
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