石田三成の実像 3935 光成準治氏「最初から家康は石田三成と仲が悪かったのか?」15 家康の力を利用しながら警戒もしていた秀吉2 竹井英文氏の「なぜ家康は江戸に入ったのか?」1 江戸を選んだのは秀吉
光成準治氏の「最初から家康は石田三成と仲が悪かったのか?」の中で、天正18年に家康が関東に転封された後の、秀吉と家康の関係について、拙ブログで触れたように、「秀吉は家康の力を利用しながら、警戒もしていた」という見解が示されていました。
これに関連して、竹井英文氏の「なぜ家康は江戸に入ったのか?」の中で、家康が関東の地を与えられた理由について、「家康は、小田原攻め以前から関東・奥羽の諸問題に対応しており、関東・奥羽を平定した豊臣政権としては、家康に関東入国後も引き続きその役割を果たすことを期待し、求めたと言える」と指摘されていることも前述しました。
竹井氏の同書では、家康が江戸の地を選んだのではなく、秀吉が選んだという見解を示されていますが、このことについて次のように述べられています。
「豊臣政権にとって関東のみならず奥羽をも視野に入れた東国全体の支配を行うためにふさわしい場所は、直前まで北条氏の本拠地であった小田原では最早なかった。すでに戦国時代後半には政治的にも水運・海運の面でも関東支配の拠点になりつつあり、何よりも京都から『東海道』を経て南関東から北関東、さらには奥羽へと向かう『主要道』の起点となっていた江戸こそ、ふさわしい場所だったのである」と。
従来、江戸を選んだのは、先見の明があった家康であったという見方がされ、歴史番組でもそのように描かれていることが多かったように思いますが、そうではないことを竹井氏が明らかにされたわけです。江戸を起点にした五街道を整備したのは徳川幕府だという捉え方が一般的ですが、確かにそれは否定できないものの、その基盤を作ったのは秀吉だったと言えるのではないでしょうか。
竹井氏の同書では、家康が江戸に入った理由について、江戸時代から近代、現代に至るまでの諸説を紹介され、それらの説について検討が加えられて、その上で結論を述べられているので、説得力があります。
これに関連して、竹井英文氏の「なぜ家康は江戸に入ったのか?」の中で、家康が関東の地を与えられた理由について、「家康は、小田原攻め以前から関東・奥羽の諸問題に対応しており、関東・奥羽を平定した豊臣政権としては、家康に関東入国後も引き続きその役割を果たすことを期待し、求めたと言える」と指摘されていることも前述しました。
竹井氏の同書では、家康が江戸の地を選んだのではなく、秀吉が選んだという見解を示されていますが、このことについて次のように述べられています。
「豊臣政権にとって関東のみならず奥羽をも視野に入れた東国全体の支配を行うためにふさわしい場所は、直前まで北条氏の本拠地であった小田原では最早なかった。すでに戦国時代後半には政治的にも水運・海運の面でも関東支配の拠点になりつつあり、何よりも京都から『東海道』を経て南関東から北関東、さらには奥羽へと向かう『主要道』の起点となっていた江戸こそ、ふさわしい場所だったのである」と。
従来、江戸を選んだのは、先見の明があった家康であったという見方がされ、歴史番組でもそのように描かれていることが多かったように思いますが、そうではないことを竹井氏が明らかにされたわけです。江戸を起点にした五街道を整備したのは徳川幕府だという捉え方が一般的ですが、確かにそれは否定できないものの、その基盤を作ったのは秀吉だったと言えるのではないでしょうか。
竹井氏の同書では、家康が江戸に入った理由について、江戸時代から近代、現代に至るまでの諸説を紹介され、それらの説について検討が加えられて、その上で結論を述べられているので、説得力があります。
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