石田三成の実像 3934 光成準治氏「最初から家康は石田三成と仲が悪かったのか?」14 家康の力を利用しながら警戒もしていた秀吉
光成準治氏の「最初から家康は石田三成と仲が悪かったのか?」の中で、天正18年に家康が関東に転封された後の、秀吉・三成ら奉行人と家康の関係について、次のように指摘されています。
「秀吉は家康の力を利用しながら、警戒もしていた。ゆえに、三成・長盛による『取次』(上杉・真田・佐竹・宇都宮・里見など)を通じて家康包囲網を形成する一方で、家康による『取次』(結城氏)も認めてバランスをとろうとした」と。
三成・増田長盛らが取次を務めていた反北条方領主たちは、北条氏が滅んだ後は、 今度は家康包囲網を形成するわけです。結城氏については、 「天正18年(1590)の知行割直後の結城氏領仕置を担当したのは増田長盛であったが」、家康の次男の秀康が結城氏の跡継ぎとなった後、「家康が『指南』する立場に代わった」という市村高男氏の見解が紹介されています。
「秀吉は家康の力を利用しながら、警戒もしていた」というのは、比較的新しい見方ではないでしょうか。家康の転封については、これまでは、秀吉は家康を父祖の地から関東に追いやったという見方が一般的でしたが、今ではそれに対する否定的見解が示され、秀吉は関東に入った家康に期待していたという見方が広がっています。この点について、竹井英文氏の「なぜ家康は江戸に入ったのか?」の中で、次のような指摘がされています。
「家康は、小田原攻め以前から関東・奥羽の諸問題に対応しており、関東・奥羽を平定した豊臣政権としては、家康に関東入国後も引き続きその役割を果たすことを期待し、求めたと言える」と。
奥羽・関東支配には、家康の力が必要だと秀吉は考えたというわけです。しかし、秀吉は全面的に家康を信用していたのではなく、一方で、家康包囲網も形成し、互いに牽制する態勢を整えていたということになります。
「秀吉は家康の力を利用しながら、警戒もしていた。ゆえに、三成・長盛による『取次』(上杉・真田・佐竹・宇都宮・里見など)を通じて家康包囲網を形成する一方で、家康による『取次』(結城氏)も認めてバランスをとろうとした」と。
三成・増田長盛らが取次を務めていた反北条方領主たちは、北条氏が滅んだ後は、 今度は家康包囲網を形成するわけです。結城氏については、 「天正18年(1590)の知行割直後の結城氏領仕置を担当したのは増田長盛であったが」、家康の次男の秀康が結城氏の跡継ぎとなった後、「家康が『指南』する立場に代わった」という市村高男氏の見解が紹介されています。
「秀吉は家康の力を利用しながら、警戒もしていた」というのは、比較的新しい見方ではないでしょうか。家康の転封については、これまでは、秀吉は家康を父祖の地から関東に追いやったという見方が一般的でしたが、今ではそれに対する否定的見解が示され、秀吉は関東に入った家康に期待していたという見方が広がっています。この点について、竹井英文氏の「なぜ家康は江戸に入ったのか?」の中で、次のような指摘がされています。
「家康は、小田原攻め以前から関東・奥羽の諸問題に対応しており、関東・奥羽を平定した豊臣政権としては、家康に関東入国後も引き続きその役割を果たすことを期待し、求めたと言える」と。
奥羽・関東支配には、家康の力が必要だと秀吉は考えたというわけです。しかし、秀吉は全面的に家康を信用していたのではなく、一方で、家康包囲網も形成し、互いに牽制する態勢を整えていたということになります。
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