石田三成の実像 3932 光成準治氏の「最初から家康は石田三成と仲が悪かったのか?」12 忍城攻めに加わった浅野長政宛の井伊直政書状
光成準治氏の「最初から家康は石田三成と仲が悪かったのか?」の中で、北条攻めの際、三成が総大将を務めた忍城攻撃に関して、徳川方が浅野長吉に宛てた書状が2通取り上げられています。
1通は、天正18年7月6日付の井伊直政書状で、その内容について、「その地(忍城)の曲輪を占領され、多くの敵兵を討ち取られたとのこと、こちらにもその情報が伝わりました。いつものことではありますが、お手柄を立てられ、私もうれしく思っています」と紹介されています。
この書状について、光成氏の同書には次のように解説されています。
「徳川氏と三成の間に通交があった形跡はない。長吉が豊臣政権における家康との通交窓口を担っていたことから、長吉と徳川氏との間には親密な関係が生じたのであろう」と。
三成が率いる北条攻めの別動隊.は、5月30日に館林城を開城させると、6月4日に忍城へ向かい、5日から城を包囲します。一方、浅野長吉(長政)は鉢形城などを開城させ、秀吉の命によって忍城攻めに派遣されます。7月1日に長吉が忍城攻めの陣にいたことが確認できます。上記の直政書状は、長政の忍城攻めでの活躍を知って出されたものです。光成氏の指摘通り、長吉は家康の取次を務めていましたから、家康の家臣の直政が長吉にそういう書状を出すのは不思議ではありません。この書状も儀礼的なものかもしれませんし、「長吉と徳川氏との間には親密な関係が生じた」とまでは言えない気がします。
後年のことになりますが、秀吉の死の翌年、家康の縁辺問題が生じた時、長吉(長政)も家康を糾弾する側に回っています。また家康と前田利長の仲が険悪になった時、長吉(長政)も家康から処分を受けて蟄居の身となっています。長吉は秀吉の生前、家康の取次を務めてきたものの、ある程度割り切った関係であり、家康は長吉のことをあくまで豊臣政権の奉行としか見ていなかったのではないでしょうか。一方、三成の方は光成氏が指摘されているように、家康の取次を務めたことはありませんから、家康との間に書状のやり取りがないのは自然なことでした。
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1通は、天正18年7月6日付の井伊直政書状で、その内容について、「その地(忍城)の曲輪を占領され、多くの敵兵を討ち取られたとのこと、こちらにもその情報が伝わりました。いつものことではありますが、お手柄を立てられ、私もうれしく思っています」と紹介されています。
この書状について、光成氏の同書には次のように解説されています。
「徳川氏と三成の間に通交があった形跡はない。長吉が豊臣政権における家康との通交窓口を担っていたことから、長吉と徳川氏との間には親密な関係が生じたのであろう」と。
三成が率いる北条攻めの別動隊.は、5月30日に館林城を開城させると、6月4日に忍城へ向かい、5日から城を包囲します。一方、浅野長吉(長政)は鉢形城などを開城させ、秀吉の命によって忍城攻めに派遣されます。7月1日に長吉が忍城攻めの陣にいたことが確認できます。上記の直政書状は、長政の忍城攻めでの活躍を知って出されたものです。光成氏の指摘通り、長吉は家康の取次を務めていましたから、家康の家臣の直政が長吉にそういう書状を出すのは不思議ではありません。この書状も儀礼的なものかもしれませんし、「長吉と徳川氏との間には親密な関係が生じた」とまでは言えない気がします。
後年のことになりますが、秀吉の死の翌年、家康の縁辺問題が生じた時、長吉(長政)も家康を糾弾する側に回っています。また家康と前田利長の仲が険悪になった時、長吉(長政)も家康から処分を受けて蟄居の身となっています。長吉は秀吉の生前、家康の取次を務めてきたものの、ある程度割り切った関係であり、家康は長吉のことをあくまで豊臣政権の奉行としか見ていなかったのではないでしょうか。一方、三成の方は光成氏が指摘されているように、家康の取次を務めたことはありませんから、家康との間に書状のやり取りがないのは自然なことでした。
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