石田三成の実像 3919 白峰旬氏「『山へ取上候』の意味についてー 関ヶ原本戦は決戦(決勝会戦)だったのか追撃戦だったのかー」7「山の上に逃げた」という解釈6 一方的な追撃戦だったという見方5 陣立書には先備4万人余という記述

 白峰旬氏の「『山へ取上候』の意味についてー 関ヶ原本戦は決戦(決勝会戦)だったのか追撃戦だったのかー」の中で、慶長5年9月20日付の近衛信尹宛近衛前久書状の「山へ取上候」の意味について、「山へあがった」という文字的な解釈の他に、もう一つ別の「山の上へ逃げた」という解釈ができ、関ヶ原の戦いは一方的な追撃戦であったという見方が示されていますが、その見方についての白峰氏の考察の続きです。
「石田三成などの諸将が大垣城を出たのは、後日、豊臣公儀の軍勢を結集して家康方軍勢 関ヶ原の戦いの家康方軍勢の陣立書(「大関家文」)によれば、家康方軍勢の「御先備」は4万余人であった。
 これに対して、大垣城から退避した石田三成などの諸将の軍勢の兵力数は、島津義弘、小西行長、宇喜多秀家については、従来の軍役規定人数よりも少数だった可能性が高い。
 家康方軍勢の陣立書(「大関家文書」)によれば、「御先備」の諸将は、先頭から4列横隊−2列縦隊−1列横隊の順で行軍する形になっていて、横隊を主軸に行軍することにより石田方軍勢との遭遇戦に即応できた(包囲殲滅できた)と考えられる」と。
 白峰氏は「関ヶ原の戦いの陣立書(『大関家文書』)」(別府大学史学研究会『史学叢書』第52号 2022年10月)というご論考で、この陣立書について詳細に論じられています。その折、白峰氏よりそのご論考をご恵贈賜りましたが、拙ブログでまだ取り上げていませんでした。白峰氏も触れておられますが、この陣立書は一次史料ですから、この史料にはもっと注目してしかるべきだと思います。
 この陣立書には、徳川方軍勢が「御先備」と「御跡備」に分けられて記されており、「御先備」は「4万余人」で、「諸将は、先頭から4列横隊−2列縦隊−1列横隊の順で行軍する形になって」います。家康の本陣の位置は記されていないものの、白峰氏は「『御先備』と『御跡備』の間にあったと推測される」と指摘されています。「御先備」に徳川の家臣の名前は入っていませんから、本陣・「御跡備」を含めた家康方軍勢の総数はかなりの大軍になるはずです。
 それに比べて三成方(豊臣公儀方)軍勢の数は「従来の軍役規定人数よりも少数だった可能性が高い」と白峰氏は指摘されています。「軍役規定人数」は百石につき3人であり、矢部健太郎氏の「関ヶ原合戦と石田三成」にはその人数が掲載されていますが、石田三成5820人、宇喜多秀家17220人、小西行長6000人、大谷吉継1500人、そこに島津義弘800人を加えれば31300人になります。実数はそれより少なかったという見解を白峰氏は示されているわけです。
 

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