石田三成の実像 3918 白峰旬氏「『山へ取上候』の意味についてー 関ヶ原本戦は決戦(決勝会戦)だったのか追撃戦だったのかー」6「山の上に逃げた」という解釈5 一方的な追撃戦だったという見方4
白峰旬氏の「『山へ取上候』の意味についてー 関ヶ原本戦は決戦(決勝会戦)だったのか追撃戦だったのかー」の中で、慶長5年9月20日付の近衛信尹宛近衛前久書状の「山へ取上候」の意味について、「山へあがった」という文字的な解釈の他に、もう一つ別の「山の上へ逃げた」という解釈ができ、関ヶ原の戦いは一方的な追撃戦であったという見方が示されていますが、その見方についての白峰氏の考察の続きです。
「石田三成などの諸将が大垣城を出たのは、後日、豊臣公儀の軍勢を結集して家康方軍勢との決戦(決勝会戦)をするために、大垣城から出て上方(大坂城)へ向けて一旦退避しようとしたのであろうか。上述したように、山中は関ヶ原より西方に位置するので、大垣城から退避した石田三成方軍勢が上方へ向けて移動しようとしていたことの証左になる」と。
三成方(豊臣公儀方)軍勢が大垣城を出て、関ヶ原方面になぜ移動したのかについてはいろいろな説があります。家康が三成の居城である佐和山城を襲うという噂を流し、三成らを関ヶ原におびき出したという説、松尾山に陣取った小早川秀秋に謀反の疑いがあり、秀秋を牽制するために移動したという説、三成らが自分たちの意思で関ヶ原方面に先に移動して一大決戦に及んだという説など。しかし、追撃戦であったという説は今まで唱えられたことはなかったように思います。三成方軍勢はどこに退避したのかについては、白峰氏は上方へ移動しようとしていたのではないかと推測されていますが、一挙に大坂城というのは無理なので、三成の居城である佐和山城に退避することを考えたのでしょうか。しかし、それでも休憩なしで佐和山城に退くというのは物理的に無理ですし、敵に途中で追いつかれる可能性も高まります。実際、関ヶ原方面(白峰氏の見解では山中)で戦いが起こっているのですから、敵に追いつかれたわけです。白峰氏の見解によれば、まず関ヶ原エリアにいた大谷吉継隊が、家康方軍勢と、裏切った小早川秀秋隊に挟撃されて壊滅するわけですから、大谷隊は退却軍のしんがりを小早川隊と務めていたということになるのでしょうか。
このあたりは、今後の検討課題だと思われますし、白峰氏は関ヶ原の戦いが追撃戦であったということを詳しく論じた新たな論文を出されるのではないでしょうか。
「石田三成などの諸将が大垣城を出たのは、後日、豊臣公儀の軍勢を結集して家康方軍勢との決戦(決勝会戦)をするために、大垣城から出て上方(大坂城)へ向けて一旦退避しようとしたのであろうか。上述したように、山中は関ヶ原より西方に位置するので、大垣城から退避した石田三成方軍勢が上方へ向けて移動しようとしていたことの証左になる」と。
三成方(豊臣公儀方)軍勢が大垣城を出て、関ヶ原方面になぜ移動したのかについてはいろいろな説があります。家康が三成の居城である佐和山城を襲うという噂を流し、三成らを関ヶ原におびき出したという説、松尾山に陣取った小早川秀秋に謀反の疑いがあり、秀秋を牽制するために移動したという説、三成らが自分たちの意思で関ヶ原方面に先に移動して一大決戦に及んだという説など。しかし、追撃戦であったという説は今まで唱えられたことはなかったように思います。三成方軍勢はどこに退避したのかについては、白峰氏は上方へ移動しようとしていたのではないかと推測されていますが、一挙に大坂城というのは無理なので、三成の居城である佐和山城に退避することを考えたのでしょうか。しかし、それでも休憩なしで佐和山城に退くというのは物理的に無理ですし、敵に途中で追いつかれる可能性も高まります。実際、関ヶ原方面(白峰氏の見解では山中)で戦いが起こっているのですから、敵に追いつかれたわけです。白峰氏の見解によれば、まず関ヶ原エリアにいた大谷吉継隊が、家康方軍勢と、裏切った小早川秀秋隊に挟撃されて壊滅するわけですから、大谷隊は退却軍のしんがりを小早川隊と務めていたということになるのでしょうか。
このあたりは、今後の検討課題だと思われますし、白峰氏は関ヶ原の戦いが追撃戦であったということを詳しく論じた新たな論文を出されるのではないでしょうか。
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