石田三成の実像 3916 白峰旬氏「『山へ取上候』の意味についてー 関ヶ原本戦は決戦(決勝会戦)だったのか追撃戦だったのかー」4「山の上に逃げた」という解釈3 一方的な追撃戦だったという見方2

白峰旬氏の「『山へ取上候』の意味についてー 関ヶ原本戦は決戦(決勝会戦)だったのか追撃戦だったのかー」の中で、慶長5年9月20日付の近衛信尹宛近衛前久書状の「山へ取上候」の意味について、「山へあがった」という文字的な解釈の他に、もう一つ別の「山の上へ逃げた」という解釈があることを示されていますが、それに対する白峰氏の考察の続きです。
「これまでの通説では、関ヶ原本戦は天下分け目の決戦(決勝会戦)であった、と理解されてきたが、関ヶ原本戦が決戦(決勝会戦)ではなく、当初から一方的な追撃戦であったことになると、関ヶ原本戦が短時間で決着したことも納得できる。そして、大垣城から退避した石田三成などの諸将の軍勢が短時間で殲滅され、その殲滅された場所が山中という場所(山中は関ヶ原より西方に位置する)だった、ということになる」と。
 白峰氏はかねてより関ヶ原の戦いが「短時間で決着した」という見解を示されており、主戦場であった山中での戦いは2時間ぐらいで終わったと主張されています。その戦いが追撃戦であったということになると、確かに追う方が追われる方より有利であり、追われる方が三成ら豊臣公儀方軍勢であったとすれば、一方的に敗れたのも納得できます。同時期に東北では上杉氏と最上氏・伊達氏との戦いが起こりますが、上杉軍は最上領に攻め込むものの、結局兵を引き、その時最上軍が上杉軍を追撃し、多数の兵を討ち取ります。もっとも、最上軍にも被害が出、最上義光も兜に銃弾を受けています。上杉軍が撤退したのは、従来、上杉側が関ヶ原の戦いの敗戦を知ったからだと考えられてきましたが、そうではないことを高橋明氏が明らかにされました。
 白峰氏は関ヶ原の戦いが「一方的な追撃戦になったのか、という理由」について考察されていますが、それについては後述します。
 

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