石田三成の実像 3883 白峰旬氏「慶長5年の上杉討伐における徳川家康の軍事オプションについて」22 上杉討伐に向けての動向19 

 白峰旬氏「慶長5年の上杉討伐における徳川家康の軍事オプションについて いわゆる『小山評定』の存在を考えるプロセスとして」の中で、上杉討伐に向けての動向として、「(慶長5年)6月10日付春日元忠宛来次氏秀書状」が取り上げられていますが、「6万ばかりという軍勢数」や「会津攻めが50日(=2ヶ月弱)以内に終了する、という予想」から、白峰氏は次のように指摘されています。
「当時、上杉討伐(会津攻め)の規模は、天正18年の豊臣秀吉による小田原攻め(陣立書によれば、合計動員兵力数は16万735騎、或いは、12万9760人)よりは規模が少ないと想定されていたことになる」と。
「6万ばかりという軍勢数」は、書状の中の、来次が「家康の会津攻めの軍勢数を6万ばかりと予測している」という記述内容を指します。
 小田原攻めの動員兵力数については、白峰氏の同書の[註]によれば、「16万735騎」は、「伊達家文書」の「小田原陣立書」2⒐06号文書、「12万9760人」は、「伊達家文書」の「小田原陣立書」2907号、2908号文書の、各兵力数を合計したものです。
 来次書状の中に記されている「6万ばかり」という数字がどれだけ妥当性があるのかについては、今後の検討課題ですが、上杉攻めの兵力動員数が、通説で思われていたよりもかなり小規模なものであったという白峰氏の指摘は、上杉攻めの概念を変えるものです。
 三成が上杉攻めに反対して城に立て籠もったという、来次書状の記述内容についても、今までの通説の理解でいいのか、根本的な問題を含んでいる気がします。
 通説では、大谷吉継が三成の嫡男の重家を上杉攻めに参陣させるべく、重家を迎えに来た時に、三成が吉継に反家康の挙兵を打ち明けるというふうに捉えられていますが、上杉攻めに反対していた三成のもとに参陣要請が来たというのはありうることでしょうか。三成は反対していたけれども、重家を参陣させることで家康はよしとしたのか、あるいは三成は重家を参陣させるというポーズを見せることで、家康を安心させたのか、あるいは一連のエピソードは全くのフィクションなのか、いろいろ考えられます。

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