石田三成の実像 3786 白峰旬氏の論考「岐阜関ヶ原古戦場記念館所蔵『(慶長五年)八月八日付下川兵太夫宛大木兼能書状』について」13 最終的な決定権は秀頼にあるという記載
白峰旬氏の論考「岐阜関ヶ原古戦場記念館所蔵『(慶長五年)八月八日付下川兵太夫宛大木兼能書状』について」の中で、その記載内容について詳細に検討されていますが、その続きです。
「それについては、しかしながら、いまだ(秀頼様から)仰せ出されていないので、(秀頼様の命があれば)再度(大木兼能へ)申し上げる予定である」という記載(原文は省略します)があります。
「それ」というのは、その前の部分の「加藤清正が国許から軍勢を率いて上坂し、東国への出陣の先手を務める」という奉行衆の要請のことを指しています。白峰氏は「豊臣秀頼を軍事指揮権の最高権力者として扱っている」と指摘されていますが、上記の記載内容でも、「(秀頼様から)仰せ出されていない」とありますから、最終的な決定権は秀頼にあったことがわかります。むろん、秀頼はこの時、わずか8歳ですから、実際に最終的な決定を下すのは、母の淀殿周辺であったと思われます。京都新城にいる北政所の意向も踏まえていたかもしれません。
通説では、淀殿は三成ら側、北政所は家康側という捉え方がされてきましたが、家康方に寝返った京極高次の大津城の開城交渉に、淀殿と北政所が連携してそれぞれ使者を送っていることを跡部信氏が指摘されていますし、関ヶ原の戦いの直後、北政所が御所に逃げ込んでいること、三成の三女の辰姫が関ヶ原の戦いの後、北政所の養女として津軽家に嫁いでいること(白川亨氏の指摘)などから、通説が間違いだということがわかります。
そもそも、三成らが挙兵することによって、秀頼を推戴した、家康を排除した形での二大老・四奉行による新たな豊臣公儀体制を樹立したわけですから、秀頼が「軍事指揮権の最高権力者」であったのは当然ですが、新たな豊臣公儀側が家康に関ヶ原の戦いに敗れたことによって、家康は豊臣公儀の大老として返り咲いて、反対に三成らは謀反人扱いされ、立場が逆転してしまいます。そうすることによって、秀頼の責任も問われずに済み、その時点では豊臣家は生き残ります。しかし、家康は3年後に将軍に就任することによって、新たな徳川公儀体制を作り上げるわけです。
「それについては、しかしながら、いまだ(秀頼様から)仰せ出されていないので、(秀頼様の命があれば)再度(大木兼能へ)申し上げる予定である」という記載(原文は省略します)があります。
「それ」というのは、その前の部分の「加藤清正が国許から軍勢を率いて上坂し、東国への出陣の先手を務める」という奉行衆の要請のことを指しています。白峰氏は「豊臣秀頼を軍事指揮権の最高権力者として扱っている」と指摘されていますが、上記の記載内容でも、「(秀頼様から)仰せ出されていない」とありますから、最終的な決定権は秀頼にあったことがわかります。むろん、秀頼はこの時、わずか8歳ですから、実際に最終的な決定を下すのは、母の淀殿周辺であったと思われます。京都新城にいる北政所の意向も踏まえていたかもしれません。
通説では、淀殿は三成ら側、北政所は家康側という捉え方がされてきましたが、家康方に寝返った京極高次の大津城の開城交渉に、淀殿と北政所が連携してそれぞれ使者を送っていることを跡部信氏が指摘されていますし、関ヶ原の戦いの直後、北政所が御所に逃げ込んでいること、三成の三女の辰姫が関ヶ原の戦いの後、北政所の養女として津軽家に嫁いでいること(白川亨氏の指摘)などから、通説が間違いだということがわかります。
そもそも、三成らが挙兵することによって、秀頼を推戴した、家康を排除した形での二大老・四奉行による新たな豊臣公儀体制を樹立したわけですから、秀頼が「軍事指揮権の最高権力者」であったのは当然ですが、新たな豊臣公儀側が家康に関ヶ原の戦いに敗れたことによって、家康は豊臣公儀の大老として返り咲いて、反対に三成らは謀反人扱いされ、立場が逆転してしまいます。そうすることによって、秀頼の責任も問われずに済み、その時点では豊臣家は生き残ります。しかし、家康は3年後に将軍に就任することによって、新たな徳川公儀体制を作り上げるわけです。
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