石田三成の実像 3772 白峰旬氏の論考「慶長5年の丹後田辺城攻囲戦(田辺城籠城戦)に関する再検討」34 落城は8月5日と考定32 「8月8日付下川兵太夫宛大木兼能書状」の記載1
白峰旬氏の論考「慶長5年の丹後田辺城攻囲戦(田辺城籠城戦)に関する再検討」の「付記」で、岐阜関ヶ原古戦場記念館が所蔵する「(慶長5年)8月8日付下川兵太夫宛大木兼能書状」の田辺城攻囲について記載されている部分についての考察が加えられています。白峰氏の論考「岐阜関ヶ原古戦場記念館所蔵『(慶長五年)八月八日付下川兵太夫宛大木兼能書状』について」については拙ブログで改めて取り上げますが、田辺城攻囲について記載されている部分についての考察については、先に触れたいと思います。
まず「丹後田辺城に細川幽斎が堅固に籠もっている」という記載内容(原文は省略しますが、下線aに当たる部分)に白峰氏は白峰氏は「豊臣公儀の軍勢が田辺城を攻囲中とは記されていないので、下線aの記載は、本稿での論旨と矛盾しない」と指摘されています。
大木兼能は、加藤清正の重臣で、この時、上方で留守居家老を務めていましたが、白峰氏は、この書状について詳細な検討を加えることによって清正がこの時点で通説とは違って豊臣公儀側であったという新見解を示されています。それについては、改めて述べますが、大木が豊臣公儀側なら、田辺城の状況に詳しいのも当然という気がします。
また「豊臣公儀側より扱い(=調停)のため勅使に増田長盛の使者を添えて、近々扱い(=調停)の予定であるが、幽斎がなかなかその扱い(=調停)に同意しない」という記載内容について、白峰氏は「8月8日の時点で、今後、調停のための勅使を田辺城に遣わす予定としているので、8月8日より以前には勅使は田辺城に遣わされていないことになる。この点も本稿での論旨と矛盾しない。細川幽斎がなかなかその扱い(=調停)に同意しない、というのは、細川幽斎が田辺城から出てこない、ということを示している」と指摘されています。
白峰旬氏が論考「慶長5年の丹後田辺城攻囲戦(田辺城籠城戦)に関する再検討」を書き上げられた後、この書状の存在をお知りになったわけですが、この書状の内容も丹後田辺城攻囲戦についての新見解を裏付けるものになっているわけです。
まず「丹後田辺城に細川幽斎が堅固に籠もっている」という記載内容(原文は省略しますが、下線aに当たる部分)に白峰氏は白峰氏は「豊臣公儀の軍勢が田辺城を攻囲中とは記されていないので、下線aの記載は、本稿での論旨と矛盾しない」と指摘されています。
大木兼能は、加藤清正の重臣で、この時、上方で留守居家老を務めていましたが、白峰氏は、この書状について詳細な検討を加えることによって清正がこの時点で通説とは違って豊臣公儀側であったという新見解を示されています。それについては、改めて述べますが、大木が豊臣公儀側なら、田辺城の状況に詳しいのも当然という気がします。
また「豊臣公儀側より扱い(=調停)のため勅使に増田長盛の使者を添えて、近々扱い(=調停)の予定であるが、幽斎がなかなかその扱い(=調停)に同意しない」という記載内容について、白峰氏は「8月8日の時点で、今後、調停のための勅使を田辺城に遣わす予定としているので、8月8日より以前には勅使は田辺城に遣わされていないことになる。この点も本稿での論旨と矛盾しない。細川幽斎がなかなかその扱い(=調停)に同意しない、というのは、細川幽斎が田辺城から出てこない、ということを示している」と指摘されています。
白峰旬氏が論考「慶長5年の丹後田辺城攻囲戦(田辺城籠城戦)に関する再検討」を書き上げられた後、この書状の存在をお知りになったわけですが、この書状の内容も丹後田辺城攻囲戦についての新見解を裏付けるものになっているわけです。
この記事へのコメント