受贈御礼「愛城研報告」第27号・白峰旬氏の論考「慶長5年の丹後田辺城攻囲戦(田辺城籠城戦)に関する再検討」「岐阜関ヶ原古戦場記念館所蔵『(慶長五年)八月八日付下川兵太夫宛大木兼能書状』について」

白峰旬氏より「愛城研報告」第27号をご恵贈賜りました。この場を借りて御礼申し上げます。
この書には、白峰氏の論考「慶長5年の丹後田辺城攻囲戦(田辺城籠城戦)に関する再検討」「岐阜関ヶ原古戦場記念館所蔵『(慶長五年)八月八日付下川兵太夫宛大木兼能書状』について」が掲載されています。
「慶長5年の丹後田辺城攻囲戦(田辺城籠城戦)に関する再検討」は、丹後田辺城攻囲戦の通説的理解に対して、数々の一次史料の検討によって否定的見解を示されていますが、今までわれわれがいかに通説を鵜呑みにしてきたか、思い知らされました。通説では、関ヶ原の戦いの際、細川幽斎の籠もる丹後田辺城は三成方の大軍に包囲されたものの、二ヶ月にわたってよく耐え、古今伝授の唯一の継承者である幽斎を後陽成天皇が救うべく勅命によって9月12日に和睦が整い、開城したというものです。
詳細については後述しますが、実際は田辺城の落城は8月5日であり、幽斎は朝廷に助命を嘆願して助かり、そのまま田辺城にとどまったこと、古今伝授のために後陽成天皇が勅命講和したという話は、当時の史料には一切出てこず、江戸時代になって細川家が幽斎は敗北していないというストーリーにするために、勅命講和や天皇が古今伝授の絶えるのを心配したという話を捏造したということを白峰氏は指摘されています。
また、「岐阜関ヶ原古戦場記念館所蔵『(慶長五年)八月八日付下川兵太夫宛大木兼能書状』について」は、その記載内容について詳細な検討が加えられ、8月6日に大坂城で豊臣公儀側の軍議があった時に、加藤清正の家臣で上方の留守居家老であった大木がその軍議に参加し、その時点では加藤清正が豊臣公儀サイドであったという、これも今までの通説を覆す見解が示されています。この書状については、拙ブログで以前取り上げたことがあり、大垣で高橋陽介氏とその書状の内容についていろいろ話し合ったこを思い出します。この論考についても改めて後述します。
この記事へのコメント
田辺城攻めに関して8月5日には落城、帝による勅命講和ではない等という
新史料が発見されたのでしょうか?
8月2日細川幽斎書状によるとはじめ八条の宮と前田玄以の使者が数日前訪れ
その使者に古今相伝集、源氏物語等を託し禁裏に進上しこれにて思い残すことなしとあり、勅使→古今相伝集進上という時系列で調停に命乞いをしたわけではなく勅使も派遣されてますし帝が古今伝の絶えることを心配したかはわかりませんが、禁裏に進上されているのは事実です。
また臼杵城の松井佐渡、有吉立行より8月18日細川幽斎側近宛書状では
御城(田辺城)堅固につき度々寄手敗軍の由とあり
8月28日細川忠興側近宛書状では田辺の儀ご堅固の由候間とあり
8月5日に落城しているとはとても思われません。
これらは細川家サイドの書状なので捏造ということなのかもしれませんが
取り上げられておられるという加藤家の八月八日付下川兵太夫宛大木兼能書状
にも丹後の儀、ゆう斎居城たなべけんこニ御持ち被成候、此方より御あつかいとして、勅使に増田長盛使者、御添え候て色々御扱い候へとも中々お聞きなく
責め衆過分に損し候とあり、勅使も派遣されてますし籠城も続いているようです。
他に一次史料としては時慶記には8月15日と8月17日、9月3日に講和について
記述があり
義演准后日記の9月3日の記述には伝聞によれば近く丹後の細川幽斎が開城予定であり親王八條宮よりの御扱いとあり、勅命講和であることも開城が9月であることも明白ではないでしょうか
田辺城攻めに関するご指摘の史料については、その多くが白峰氏の論考の中で取り上げて論じられており、今後、拙ブログでその史料についての白峰氏の見解を随時紹介していきますので、恐れ入りますが、それを御覧いただき、その上で改めてご意見をいただければ幸いです。
白峰氏の見解は、一次史料を再検討することによって、導き出されたものと思われますので、新史料の発見によるものではありません。「 八月八日付下川兵太夫宛大木兼能書状」についても、この論考の「付記」で取り上げられていますが、「こもり」云々の記述は、落城後も幽斎は城に籠もっている意味だと解釈されています。勅使の派遣は講和のためではなく、城に引きこもっている幽斎の命を助けるためで、勅命講和は永禄年間以降、寺社に出されたものに限定されており、武家に出したものは一例もないという堀新氏の見解も紹介されています。
古今伝授証状の進上のことについても、8月2日付細川幽斎書状などをもとに詳しく論じられており、このあたりのことも拙ブログで取り上げてゆきますので、よろしくお願いします。>