石田三成の実像 3717 阿部哲人氏の講演会「東北の関ヶ原」7 上杉景勝に関東出兵を要請している三成書状・兼続と三成の事前密約説に否定的見解

 阿部哲人氏の講演会「東北の関ヶ原」の中で、慶長5年8月5日付の真田昌幸・信之・信繁宛石田三成書状(「真田家文書」54号)の第4条が取り上げられ、その中で「景勝に早々の関東への出兵を要請」していると説明されていました。
 この第4条について、笹本正治氏の「真田氏三代」の中で、「昌幸からも会津の上杉景勝へ軍事行動を起こすよう説得していただきたい」という内容だと説明されていますが、この軍事行動とは、原文に「会津へも早々関東表へ御行被仰談」などとあるので、関東出兵を要請していることは明らかです。昌幸ルートを通じて景勝に関東出兵を要請していることもわかります。      
 8月4日付の直江兼続書状写の中で、「こちら(上杉側)の状況によって関東退治として上方からの派兵(援軍)を上方西軍から通達」していることから、これは家康に対する「挟撃作戦の提案」であり、この書状写が「上杉氏の関東出兵への言及の初見」ではないかと指摘されていました。三成ら豊臣公儀側はそれ以前に上杉氏に対して関東出兵を要請していたことがわかります。8月5日付の三成書状で、関東出兵を促していますが、それとは別に直接、上杉氏に出兵要請を働きかけていたわけです。阿部氏はこういうことから、かねてより三成と兼続が家康を挟撃するという密約を結んでいたという「事前密約説」を否定されています。
 この「事前密約説」はよく小説やドラマで取り上げられてきましたし、大河ドラマ「天地人」でも、慶長4年夏に兼続が会津に帰国する際に、佐和山に立ち寄り、2人で家康を東西から攻めようという密約を結んだという描き方がされていました。白川亨氏はこの時、兼続が三成の次女を伴って帰国し、上杉氏家臣の岡半兵衛に嫁がせたことは、2人の密約の証拠だと指摘されています。確かに、この婚姻は、2人の関係の近さ、親密さを物語るものには違いありませんが、この時からすでに家康を討つ計画を立てていたとはどうも考えられません。三成はこの後、家康と前田利家の仲が険悪になった際、三成は家康の要請に応じて前田氏を牽制するために出兵していますし、兼続についても会津に転封して間もない時期でしたから、領国経営に余念がなかったはずです。事前密約があったとするなら、家康が上杉攻めを強行しようとてからだったのではないでしょうか。

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