石田三成の実像 3705 高橋陽介氏の講演会「石田三成はなぜ関ヶ原へ向かったのか」10 太田浩司氏の見解2 根拠となる島津家史料をめぐって

 高橋陽介氏の講演会「石田三成はなぜ関ヶ原へ向かったのか」の中で、関ヶ原の戦い(本戦)に関する白峰旬氏と高橋氏の新説に対する批判的な太田浩司氏の見解について説明されていましたが(拙ブログ記事で前述)、従来説通りだとする太田氏の見解の根拠として近世地誌と島津家史料が、太田氏の講演会「関ヶ原合戦の真相~三成の戦略と誤算~」で挙げられています(高橋氏の講演会では、太田氏の見解の根拠となる史料についての言及はありませんでしたが)。そのうち、島津家史料の一つとして取り上げているものに、「在伊地知地増也老送于三原九兵衛殿之一巻」の記述があり、次のような内容です。
 「石田治部少輔三成・小西摂津守行長敵之旗頭を見て、藤河を討越人数を押出、小関村之南北辰巳ニ向て備を立る、大谷刑部少輔・平塚因幡守・戸田武蔵守・同子息内記・津田長門守以下石川峠ニ陣取しか引下し、谷川を越関ヶ原之野へ押出し、味方之山之手を後ニ当て、真東ニ向て陣を張」と。
 この史料の上記の記述から読み取れることとして、太田氏は次のように説明されていました。
 「大谷らが陣した山中村から関ヶ原にかけての地域の他に、北国街道が通る小池村の一部・小関村に石田や小西が陣した場所があったことを示している。これは、通説で言う石田や小西の陣所とそう矛盾はない」と。
 この史料「在伊地知地増也老送于三原九兵衛殿之一巻」については、白峰氏の「関ヶ原の戦い当日の戦闘経過・戦闘状況についてー島津家家臣史料の検討ー」(『愛城研報告』第20号)の中で、次のように指摘されています。
 「記述は詳しいが、文学的表現も見られ、史料としての信憑性は低いと考えられるので省略し、検討対象からは除外する」
 「この史料は、内容的に見て島津家家臣の実戦記録という内容ではない」と。
 太田氏がこの指摘に対して、反論されているかどうかはよくわからないのですが、史料が信用に足るものか、よく吟味して検討する必要性を感じます。

この記事へのコメント

鳥越九郎
2024年07月10日 01:05
「在伊地知地増也老送于三原九兵衛殿之一巻」の西軍布陣に関する当該部分は
太田牛一の内府公軍記(1607年までには成立)の「御敵治部少、小西、島津、旗頭を見申し藤子川を越え小関村南に辰巳へ向かいて人数を備、大谷刑部少輔、備前中納言、、平塚因幡守、戸田武蔵、其子内記、石王之峠に居陣也しを引下し、谷川を越、関ヶ原北野へ人数推出し、西北の山手を後ろにあて辰巳に向て軽率を出し候」よりの引用と思われます、微妙に文言が異なっているのは
太田牛一の原本でも現在伝わっているものでも3つの版があり修正加筆で異なる部分があることや、書き手の判断か誤写か写本として伝わる書写過程での改変と思われます。

この記録は太田牛一が自己申告とはいえ合戦終結時刻についてだけでも数千人に聞いたとあり、多くの参加者より聞き取りしたことが伺え、言経卿記によれば合戦翌年家康も一見したとあり、板坂卜斎の慶長年中卜斎記に
合戦次第は太田和泉守記録にありとあり内容に信を置いていることから
一定の信憑性は認めてもよいのではないでしょうか

記載されている西軍布陣に関しては、従来の通説とされている布陣に近く
少なくとも西軍布陣に関しては新説の布陣より従来説の方が真実に近いのではないかと思います。
この記録をルーツとしたものが通説となり江戸時代の創作部分も加わり
従来の関ヶ原合戦像が形成されたのではないでしょうか
石田世一
2024年07月16日 01:55
鳥越九郎さん
貴重なご意見、ありがとうございます。確かに「内府公軍記」がもとになって、従来説が形成されてきた可能性は高いように思われます。ただ、「内府公軍記」の記述が本当に正しいのか、都合よく書かれた部分はないか、一次史料と照らし合わせてよく検討する必要があるのではないでしょうか。関ヶ原合戦の実態がどうであったのか、いろいろな観点から、今後も熱い議論が交わされてゆくような気がします。