石田三成の実像 3679 阿部哲人氏「合戦に至る東北西軍大名の動向ー上杉景勝を中心に」13 会津への正使派遣
阿部哲人氏の「合戦に至る東北西軍大名の動向ー上杉景勝を中心に」(太田浩司氏編『石田三成』所載)の中で、慶長5年になってからの景勝の上洛問題をめぐる経緯について述べられていますが、その続きです。
家康が会津の景勝に上洛要請をしたものの、景勝が上洛できないと主張したことに対して、増田長盛と大谷吉継が度々調停しましたが、その調停が不調に終わり、豊臣政権(家康)からの使者が会津に派遣されることになります。そのことについて、阿部氏の同書では次のように記されています。
「4月10日、(伊奈)昭綱は毛利輝元・長盛・吉継ら、『御奉行衆』の使者河村長門とともに大坂から会津へ出発した(『鹿児島県史料』「旧記雑録」後編三1092・1098、『歴代古案』1558)。上方・会津間は片道2週間程度の行程であったとみられるから、会津での交渉は4月末頃であったろう」と。
この記述から伊奈と河村は、豊臣政権の正式な使者であったことがわかりますが、家康が主導した形での上洛要請でした。輝元・長盛・吉継らはなんとか無難にこの問題を収拾したいと思っていたはずです。それが証拠に、この後、家康が会津攻めを強行した時、輝元・長盛・吉継らはいずれも三成と共に、家康に対して兵を挙げています。会津に着いた正使と、景勝とのやりとりについては、次のように記されています。
「昭綱らは、家康が義弘に自ら語ったところから、6月上旬という上洛の期限を(『鹿児島県史料』「旧記雑録」後編三1098)、そして景勝の弁によれば上洛しなければ攻撃を加えることを上杉氏に伝えたとみられる(『新潟県史料』1578)。(中略)これに対して景勝は、もとより謀反の意志はない以上、讒人の究明のみを条件として上洛を容認する旨を伝えたのであった(『新潟県史料』1578)。景勝は武力衝突を回避するべく譲歩したのである。なお、景勝はこの使者派遣による上洛命令を『重ねて逆臣の讒言』によってと述べているので、一連の上洛要求が讒言によるものと認識していたことは明らかである」と。
大事なのは、景勝が「讒人の究明のみを条件として上洛を容認する旨を伝えた」という点です。「讒人の究明」というのは、景勝側としては当然の要求だと思いますが、家康がそれを受け入れるはずはありませんし、実際この後、家康はそれに応じないのみならず、新たな条件を突きつけています。景勝をどんどん追い込んでいって屈服させようとする家康の意思が感じられますし、景勝も家康と戦うのもやむなしという意思を固めめ、家康も会津攻めを強行するわけです。もっとも、阿部氏は家康が軍事的に景勝を屈服させようとしていたのではなく、和戦両様の姿勢で臨んでいたということを指摘されていますが、この点は後述します。
家康が会津の景勝に上洛要請をしたものの、景勝が上洛できないと主張したことに対して、増田長盛と大谷吉継が度々調停しましたが、その調停が不調に終わり、豊臣政権(家康)からの使者が会津に派遣されることになります。そのことについて、阿部氏の同書では次のように記されています。
「4月10日、(伊奈)昭綱は毛利輝元・長盛・吉継ら、『御奉行衆』の使者河村長門とともに大坂から会津へ出発した(『鹿児島県史料』「旧記雑録」後編三1092・1098、『歴代古案』1558)。上方・会津間は片道2週間程度の行程であったとみられるから、会津での交渉は4月末頃であったろう」と。
この記述から伊奈と河村は、豊臣政権の正式な使者であったことがわかりますが、家康が主導した形での上洛要請でした。輝元・長盛・吉継らはなんとか無難にこの問題を収拾したいと思っていたはずです。それが証拠に、この後、家康が会津攻めを強行した時、輝元・長盛・吉継らはいずれも三成と共に、家康に対して兵を挙げています。会津に着いた正使と、景勝とのやりとりについては、次のように記されています。
「昭綱らは、家康が義弘に自ら語ったところから、6月上旬という上洛の期限を(『鹿児島県史料』「旧記雑録」後編三1098)、そして景勝の弁によれば上洛しなければ攻撃を加えることを上杉氏に伝えたとみられる(『新潟県史料』1578)。(中略)これに対して景勝は、もとより謀反の意志はない以上、讒人の究明のみを条件として上洛を容認する旨を伝えたのであった(『新潟県史料』1578)。景勝は武力衝突を回避するべく譲歩したのである。なお、景勝はこの使者派遣による上洛命令を『重ねて逆臣の讒言』によってと述べているので、一連の上洛要求が讒言によるものと認識していたことは明らかである」と。
大事なのは、景勝が「讒人の究明のみを条件として上洛を容認する旨を伝えた」という点です。「讒人の究明」というのは、景勝側としては当然の要求だと思いますが、家康がそれを受け入れるはずはありませんし、実際この後、家康はそれに応じないのみならず、新たな条件を突きつけています。景勝をどんどん追い込んでいって屈服させようとする家康の意思が感じられますし、景勝も家康と戦うのもやむなしという意思を固めめ、家康も会津攻めを強行するわけです。もっとも、阿部氏は家康が軍事的に景勝を屈服させようとしていたのではなく、和戦両様の姿勢で臨んでいたということを指摘されていますが、この点は後述します。
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