石田三成の実像 3678 阿部哲人氏「合戦に至る東北西軍大名の動向ー上杉景勝を中心に」12 家康による景勝への上洛要請

 阿部哲人氏の「合戦に至る東北西軍大名の動向ー上杉景勝を中心に」(太田浩司氏編『石田三成』所載)の中で、慶長5年になってからの景勝の上洛問題をめぐる経緯について述べられています。
 4月8日付の島津家久宛島津義弘書状にその経緯が述べられ、その中で「景勝の上洛できないという主張に増田長盛と大谷吉継が『度々』調停を行ったとある」と記されています。その発端については、阿部氏の同書には記されていませんが、阿部氏の講演会「東北の関ヶ原」では、「慶長5年1月 豊臣政権(家康)による景勝への上洛要請」が行われたと述べられていました。これは同時期に家康と利長の「関係改善の兆しが見え」たことと関連しているのではないでしょうか。大老の利長を屈服させる見通しがついてきたので、家康は次の標的を大老の景勝に向けたと考えられます。
 阿部氏の同書では、「慶長年中卜斎記」には、慶長5年2月、「景勝に対する出兵が騒がれるようになった」という記述があることが取り上げられ、「領国整備に対する謀反の嫌疑のために要請された上洛を景勝が拒否したからであろう」と阿部氏は指摘されています。しかし、慶長4年の時点で「家康は景勝の領国整備を承認している」わけですから、「領国整備に対する謀反の嫌疑のため」の上洛要請は家康による手のひら返しの仕打ちと言えます。   
 謀反の疑いについては、本間宏氏の「上杉景勝の戦い」の中で、次のように記されています。
 「信頼できる一次史料は存在しないが、越後春日山城主堀秀治の家老堀直政と、上杉家中から出奔した藤田信吉の通報が契機になったとされている」と。
 実際、こういう通報があったのかどうかは、なお検討の余地があると思います。小説やドラマでは、このことはよく出てきますが。しかし、家康が景勝を上洛させるために、謀反の嫌疑をかけたのは事実でしょう。謀反が事実ではないことは家康は百も承知していたのではないでしょうか。
 引退していた三成も、家康が景勝に対して上洛要請をしたとの情報を得ていたものと思われます。慶長4年8月に会津に帰国したばかりの景勝に対して、わずか4ヶ月で上洛を要請する家康の強引なやり方に、三成は憤懣やるかたない思いを抱いたのではないでしょうか。
 

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