石田三成の実像 3677 阿部哲人氏「合戦に至る東北西軍大名の動向ー上杉景勝を中心に」11 景勝と家康の積極的な関係維持・実際は駆け引きや牽制?
阿部哲人氏の「合戦に至る東北西軍大名の動向ー上杉景勝を中心に」(太田浩司氏編『石田三成』所載)の中で、慶長4年8月に会津に帰国した景勝に対して、家康がその年のうちに出した書状は「4通確認でき、そのうちの3通は返信であった(『新潟県史』資料編918~920)」と記されています。
そのうち、9月14日付家康書状に「内々これより申し入るべきところ」と記されていることについて、次のように指摘されています。
「『内々』は表向きに対する言葉であるから、これは豊臣政権の取次を介さない、景勝と家康の私的な通信であったとみられる。両者の積極的な関係維持の姿勢がうかがわれる」と。
もっとも、阿部氏は「一見穏やかな両者のやりとりは、駆け引きや牽制であったかもしれない」とも指摘されていますが、それは前田利長と景勝が帰国した後、「9月に大坂城に入った家康が、『置目改(おきめあらた)め』を行ない、秀吉死去時の規定を超えて政務に関与するようになった」という谷徹也氏の見解、「これを独裁的で閉鎖的な性格とみなす」水野伍貴氏の見解からの推定です。
9月17日付の家康書状写の「会津に『風説』が伝わるかもしれないが、別状はないので安心するように」という記述の「風説」について、「前田利長との関係悪化のことであろう」と指摘されています。
これは従来は、前田利長らによる家康暗殺計画のことだとされてきましたが、暗殺計画や前田攻めはなかったということを大西泰正氏が指摘されています。家康と「前田利長との関係悪化」があったのは事実であり、「家康は金沢からの上洛ルートに軍勢を配して、利長の上洛阻止を図った(『鹿児島県史料』「旧記雑録」後編三884、原史氏氏2011)」と阿部氏の同書に記されています。実際、家康は利長の上洛阻止のために、三成と大谷吉継に出兵を命じて、彼らはそれに応じています。この時、三成は奉行職を解かれて佐和山に引退していましたが、三成はその命令に従ったわけです。むろん、石田家自身が処分されていたわけではなく、三成の嫡男の重家が秀頼に仕えていました。
三成が家康からの出兵要請に応じたのは、五大老五奉行による合議制を維持したいと考え、大老同士の争いは豊臣政権のためにならないと思ったからではないでしょうか。家康が独裁的な性格を強めていることを三成が懸念していなかったわけではなく、不安には感じていたのでしょうが、ひとまず様子見をしていたと私は思っています。同じく合議制の維持に賛同していた景勝も三成と似たような気持ちだったのではないでしょうか。表向きは家康と穏やかな関係を築きながらも、家康に警戒感を持っていたというふうに考えています。
そのうち、9月14日付家康書状に「内々これより申し入るべきところ」と記されていることについて、次のように指摘されています。
「『内々』は表向きに対する言葉であるから、これは豊臣政権の取次を介さない、景勝と家康の私的な通信であったとみられる。両者の積極的な関係維持の姿勢がうかがわれる」と。
もっとも、阿部氏は「一見穏やかな両者のやりとりは、駆け引きや牽制であったかもしれない」とも指摘されていますが、それは前田利長と景勝が帰国した後、「9月に大坂城に入った家康が、『置目改(おきめあらた)め』を行ない、秀吉死去時の規定を超えて政務に関与するようになった」という谷徹也氏の見解、「これを独裁的で閉鎖的な性格とみなす」水野伍貴氏の見解からの推定です。
9月17日付の家康書状写の「会津に『風説』が伝わるかもしれないが、別状はないので安心するように」という記述の「風説」について、「前田利長との関係悪化のことであろう」と指摘されています。
これは従来は、前田利長らによる家康暗殺計画のことだとされてきましたが、暗殺計画や前田攻めはなかったということを大西泰正氏が指摘されています。家康と「前田利長との関係悪化」があったのは事実であり、「家康は金沢からの上洛ルートに軍勢を配して、利長の上洛阻止を図った(『鹿児島県史料』「旧記雑録」後編三884、原史氏氏2011)」と阿部氏の同書に記されています。実際、家康は利長の上洛阻止のために、三成と大谷吉継に出兵を命じて、彼らはそれに応じています。この時、三成は奉行職を解かれて佐和山に引退していましたが、三成はその命令に従ったわけです。むろん、石田家自身が処分されていたわけではなく、三成の嫡男の重家が秀頼に仕えていました。
三成が家康からの出兵要請に応じたのは、五大老五奉行による合議制を維持したいと考え、大老同士の争いは豊臣政権のためにならないと思ったからではないでしょうか。家康が独裁的な性格を強めていることを三成が懸念していなかったわけではなく、不安には感じていたのでしょうが、ひとまず様子見をしていたと私は思っています。同じく合議制の維持に賛同していた景勝も三成と似たような気持ちだったのではないでしょうか。表向きは家康と穏やかな関係を築きながらも、家康に警戒感を持っていたというふうに考えています。
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