石田三成の実像 3676  白峰旬氏「『日向記』収載の黒田孝高書状写について―伊東家軍勢による宮崎城攻略は私戦なのか公戦なのかー」33 「(慶長 5 年)10 月19 日付小杉丹後守宛長倉兵國書状」3 秀頼への取り成しを伊東家がおこなうことができるという不自然さ

 白峰旬氏「『日向記』収載の黒田孝高書状写について―伊東家軍勢による宮崎城攻略は私戦なのか公戦なのかー」の中で、「宮崎城攻略が公戦ではない証左」として、「(慶長 5 年)10 月19 日付小杉丹後守宛長倉兵國書状」も挙げられていますが、その中の「乍去ケ様ニ大錯亂之砌者、自他致才覚、其家之ためニ成事、世上在之儀候間、自然 殿下ニ被企御忠儀候者、諸事申承度候」いう箇所について、次のように説明・解釈がされています。
 すなわち、「このような大戦乱の時には、自他共に才覚をしてその家のためになすことが世上(必要で)あるので、もし「殿下」(=秀頼)に対して(北郷家が)御忠義(=奉公)をしたいのであれば、諸事について承りたい、としている。
 ここで注目されるのは、北郷家に対して、秀頼への取り成しを伊東家がおこなうことができる、としている点である。
 上述した黒田孝高書状写にあるように、伊東家は家康に対して黒田孝高の取り成しが必要であった、という解釈(伊東家が家康に対して黒田孝高の取り成しが必要であったとすると、秀頼に対してはさらに高いレベルの取り成しが必要ということになる)とは全く異なるのである」と。
 書状の中で「秀頼への取り成しを伊東家がおこなうことができる、としている点」は、白峰氏の指摘通り、確かにおかしいと言えます。
 その点について、光成準治氏の「九州の関ヶ原」でも、「10 月19 日付長倉兵国書状には、如水の助言に従って行動していることをうかがわせる文言はない。如水との連携が皆無であったと断定することはできないが、伊東⽒の宮崎城攻撃は、如水の指示どおりに動いたものではなく、家を守るための自主的な判断であった蓋然性が高い」と記されていることが、白峰氏の同書で示されており、白峰氏の指摘を裏付けるものになっています。もっとも、伊東⽒の宮崎城攻撃は、如水の指示に従ったという、黒田孝高書状写自体が偽作されたものであることを白峰氏は指摘されているのであって、そのことについて、白峰氏の同書では次のように記されています。
 「確かに、上述した黒田孝高書状写が偽作されたものでなかったとすると、長倉兵国書状に黒田孝高のこと(具体的には、黒田孝高の伊東家に対する指南や指示に該当する文言)が全く出てこないのは不自然である。しかし、黒田孝高書状写は写しか存在せず、長倉兵国書状は原文書が存在しているので、長倉兵国書状の方が信憑性は高いことになる。
 よって、長倉兵国書状の内容は、上述した黒田孝高書状写が伊東家によって偽作されたものである可能性を高めるものとなる」と。
 白峰氏は関ヶ原の戦いによって、惣無事体制が崩壊し公然と私戦が復活したと指摘されていますが、惣無事体制の維持は秀吉の意向を受け継いだ三成らが守ろうとしたものでしたが、家康が公戦の名の下に会津攻めを強行するに及んで、家康が惣無事体制を自ら破壊し、豊臣政権を私物化することに三成らは大きな危機感を覚え、家康を排除した形での新たな豊臣政権体制を樹立しました。それによって、三成らの新たな豊臣公儀側は、早く争乱を終わらせて、新秩序による惣無事体制を整えたかったものと思われます。しかし、伊東勢のようにこの争乱を利用して私戦を行い領土を拡大しようとした者たちも少なくなかったわけです。 

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