石田三成の実像 3668 阿部哲人氏「合戦に至る東北西軍大名の動向ー上杉景勝を中心に」9 三成引退後も、三成と景勝の連携は続いたのか?
阿部哲人氏の「合戦に至る東北西軍大名の動向ー上杉景勝を中心に」(太田浩司氏編『石田三成』所載)の中で、三成が奉行職を解かれて佐和山に引退した後の景勝と三成の関係について、次のように記されています。
「白峰氏は、キリスト教宣教師の報告書から、この後も三成と景勝の連携が続いたことを指摘している(白峰2019a・b)が、上杉氏と三成の通交を示す国内の確実な史料は、慶長5年の関ヶ原合戦に向けた連携の時点まで管見に触れず、この問題提起はさらなる検討が必要であろう」と。
確かに、三成が慶長4年閏3月に引退してから翌年の関ヶ原の戦いの前までに二人が連携していたことを示す日本側の史料は今のところ見出されていません。
景勝は慶長4年8月に会津に帰国しますが、直江兼続も同じような時期に帰国したと思われます。大河ドラマ「天地人」では、この途次に兼続が佐和山城の三成を訪ね、来たるべき時が来たら共に家康を討とうと約束する場面がありました。他のドラマや小説でも、この時期、二人が密約を結んだという描き方がされているものが少なからずあります。しかし、それを裏付ける史料は何も残っていません。この後、二人が直接会うことは永遠にありませんでしたから、密約を結ぶとしたらこの時期しかないわけです。
拙ブログで前述したように、白川亨氏は、この時期に兼続が佐和山に立ち寄り、三成の次女を伴って会津に帰国し上杉家臣の岡半兵衛との婚儀を整え、このことが三成と兼続の盟約を証すものだという見解を示されました。三成の次女がいつ嫁いだのかを示す史料はありませんから、確かなことはわかりません。しかし、この婚姻は、三成と上杉氏の結びつきの深さを物語ることには違いありませんから、連携していたと言えるのではないでしょうか。
もっとも、三成と景勝がこの時点で反家康の立場で結びついていたかどうかまではわかりません。景勝が帰国した後、家康と前田利長の関係が悪化した時、三成は家康の求めに応じて、利長の上洛を阻止するため兵を出していますから、この時期はまだ、三成は反家康の立場を明確にしていなかったと思われます。それが家康の矛先が景勝に向いて、上杉攻めを強行するに及んで、三成は家康を討たねばならないと決意したのではないでしょうか。むろん、引退後の三成が家康の専横ぶりを見ていて、次第に危機感を抱いていったとは思いますが。
白峰氏は「厚狭毛利家文書」を検討することによって、慶長5年6月の家康による上杉攻め強行の直前、三成が行長らと反家康連合を結んで挙兵しようという動きがあったということを指摘されていますが、それが事実なら、三成と景勝が密かに連絡を取り合っていた可能性は少なくないという気はします。
「白峰氏は、キリスト教宣教師の報告書から、この後も三成と景勝の連携が続いたことを指摘している(白峰2019a・b)が、上杉氏と三成の通交を示す国内の確実な史料は、慶長5年の関ヶ原合戦に向けた連携の時点まで管見に触れず、この問題提起はさらなる検討が必要であろう」と。
確かに、三成が慶長4年閏3月に引退してから翌年の関ヶ原の戦いの前までに二人が連携していたことを示す日本側の史料は今のところ見出されていません。
景勝は慶長4年8月に会津に帰国しますが、直江兼続も同じような時期に帰国したと思われます。大河ドラマ「天地人」では、この途次に兼続が佐和山城の三成を訪ね、来たるべき時が来たら共に家康を討とうと約束する場面がありました。他のドラマや小説でも、この時期、二人が密約を結んだという描き方がされているものが少なからずあります。しかし、それを裏付ける史料は何も残っていません。この後、二人が直接会うことは永遠にありませんでしたから、密約を結ぶとしたらこの時期しかないわけです。
拙ブログで前述したように、白川亨氏は、この時期に兼続が佐和山に立ち寄り、三成の次女を伴って会津に帰国し上杉家臣の岡半兵衛との婚儀を整え、このことが三成と兼続の盟約を証すものだという見解を示されました。三成の次女がいつ嫁いだのかを示す史料はありませんから、確かなことはわかりません。しかし、この婚姻は、三成と上杉氏の結びつきの深さを物語ることには違いありませんから、連携していたと言えるのではないでしょうか。
もっとも、三成と景勝がこの時点で反家康の立場で結びついていたかどうかまではわかりません。景勝が帰国した後、家康と前田利長の関係が悪化した時、三成は家康の求めに応じて、利長の上洛を阻止するため兵を出していますから、この時期はまだ、三成は反家康の立場を明確にしていなかったと思われます。それが家康の矛先が景勝に向いて、上杉攻めを強行するに及んで、三成は家康を討たねばならないと決意したのではないでしょうか。むろん、引退後の三成が家康の専横ぶりを見ていて、次第に危機感を抱いていったとは思いますが。
白峰氏は「厚狭毛利家文書」を検討することによって、慶長5年6月の家康による上杉攻め強行の直前、三成が行長らと反家康連合を結んで挙兵しようという動きがあったということを指摘されていますが、それが事実なら、三成と景勝が密かに連絡を取り合っていた可能性は少なくないという気はします。
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