石田三成の実像3637 太田浩司氏の講演「関ヶ原合戦の真相~三成の戦略と誤算~」5 スペシャルトーク「太田浩司×小和田哲男」2 山中合戦説の検討2 地元関ヶ原の伝承 白峰旬氏による江戸時代に流布した布陣図の分類

 スペシャルトーク「太田浩司×小和田哲男」の中で、太田氏は関ヶ原の戦いの戦場は、従来通りの説でよいとする根拠の一つとして、1674年に関ヶ原町の九兵衛がまとめた「庵主物語」の記述が挙げられていました(その史料は太田氏の講演「関ヶ原合戦の真相~三成の戦略と誤算~」のレジュメに掲載されています)。
 それによると、布陣場所として、石田治部少輔は小池村、島津兵庫(義弘)は小関村、小西摂津守(行長)は天満山、宇喜多宰相(秀家)は天満山南の山、筑前中納言(小早川秀秋)・小川左馬助(祐忠)は松尾山、赤沢越中守(赤座直保)・脇坂淡路守(安治)・平塚因幡守(為広)・平塚庄兵衛・戸田武蔵(重政)・戸田内記・朽木河内守(元綱)は峠(藤下)と記されています。
 太田氏はこの記述について、「小池村の笹尾山にあった三成本陣から、山中村の吉継本陣、そして松尾山の秀秋本陣と展開する、通説と変わらない布陣が記されている」と指摘されています。
 「庵主物語」は地元に残る伝承を集めたものですから、その伝承をなおざりにはできませんが、戦後70年以上経っていることが気になります。どこまで事実なのかわかりませんし、間違って伝わっている可能性もあります。逆に、こういう「庵主物語」の記述がもとになって、関ヶ原合戦の布陣図が作られていった可能性もあります。
 (なお、藤下は山中地区の地名であり、高橋陽介氏は三成が陣を置いたのは、藤下の自害峰だったと指摘されています)。
 白峰旬氏の「新解釈 関ヶ原合戦の真実」(宮帯出版社)の中で、江戸時代に流布した関ヶ原合戦の布陣図について、「高山公実録」系統のもの(江戸時代中期の1720年以降のものだと指摘されています)、「武家事紀」系統のもの(1673年以降のものだと指摘されています)、その他に分類されています。「武家事紀」の本文には、三成は小関村北山の尾に陣を張ると記されています。「庵主物語」とほぼ同時期の作成で、小池村と小関村の違いはありますが、「武家事紀」の記述や布陣図は、関ヶ原の地元の伝承をもとにしているのではないでしょうか。その伝承が正しいのかどうかを裏付ける史料が必要ですが、その史料として太田氏は島津家家臣の覚書を挙げられています。これについては後述します。   
 
 

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