石田三成の実像3629 白峰旬氏「『日向記』収載の黒田孝高書状写について―伊東家軍勢による宮崎城攻略は私戦なのか公戦なのかー」29 「(慶長6年)卯月4日付伊那掃部宛黒田孝高書状写」5 黒田の家臣名も偽作 (付記)江戸時代の書物の偏った記述
白峰旬氏「『日向記』収載の黒田孝高書状写について―伊東家軍勢による宮崎城攻略は私戦なのか公戦なのかー」の中で、「(慶長6年)卯月 4日付伊那掃部宛黒田孝高書状写」(黒田孝高書状写E)が取り上げられていますが、その続きです。
この書状写の「尚々左京殿家来衆心付専一候」という箇所について、次のように指摘されています。
「伊東祐慶が家臣に対して「心付」をするように黒田孝高が指示している。この場合の「心付」の意味は「注意」という意味と考えられ、伊東家の家臣が島津家の家臣と交戦しないように、伊東祐慶から家臣に対して注意するように、という指示であろうが、黒田孝高が他大名(伊東家)の交戦権に介入していることになり、その意味で不可解である」と。
確かに、もしこの部分が事実とするなら、黒田孝高は越権行為をしていることになり、おかしな気がします。伊東家軍勢による宮崎城攻めも黒田孝高の指示によるものだというのが通説ですが、あくまでこういう捉え方は『日向記』収載の黒田孝高書状写の記述に基づくことであり、白峰氏の指摘通り、孝高にそういう権限はなく、その孝高書状写の記述内容が疑わしいとなってくると、全く話が変わってきます。
さらに「於様子者岡田三郎四郎所ヨリ可申候」という箇所について、次のように指摘されています。
「(今後の)状況については岡田三郎四郎のところより(伊東祐慶に)申し入れる予定としている。しかし、黒田家の慶長分限帳に岡田三郎四郎の名前はない。その点は不可解である。ちなみに、宮崎城攻略の際に、黒田孝高から遣わされた検使の宮川伴左衛門尉についても黒田家の慶長分限帳に名前はない。よって、岡田三郎四郎、宮川伴左衛門尉は伊東家側で偽作された架空の人物である可能性が高い」と。
黒田孝高書状写を本物らしく見せるために黒田家の家臣の名前も偽作しているとするなら、相当大がかりな伊東家挙げての偽作だったという気がします。すべては私的な宮崎城攻めを正当化するためだったと言えば、納得できます。
関ヶ原の戦いで三成ら新たな豊臣公儀側についた家々は、徳川の世を生き残るために、戦いを起こして家康に刃向かったのは逆臣の三成にそそのかされたからであり、すべての罪を三成にかぶせ、三成を悪人に仕立て上げました。大名家の家譜や書物にもそういうことが記されましたし、編纂史料もそういう見方で描かれました。徳川幕府の検閲が入っていましたから、そう描かざるをえなかったわけですが、それぞれの藩の保身術でもありました。「『日向記』収載の黒田孝高書状写」の中でも、伊東祐兵は家康弾劾状である「内府ちかひの条々」が出された直後から伊東祐兵は家康に味方していたことや、宮崎城攻めは、孝高の承認を得て行ったものであるということなどが記されていますが、そういう書状写を偽作してまで家康に刃向かっていないことを記録として残しておく必要があったのでしょう。
この書状写の「尚々左京殿家来衆心付専一候」という箇所について、次のように指摘されています。
「伊東祐慶が家臣に対して「心付」をするように黒田孝高が指示している。この場合の「心付」の意味は「注意」という意味と考えられ、伊東家の家臣が島津家の家臣と交戦しないように、伊東祐慶から家臣に対して注意するように、という指示であろうが、黒田孝高が他大名(伊東家)の交戦権に介入していることになり、その意味で不可解である」と。
確かに、もしこの部分が事実とするなら、黒田孝高は越権行為をしていることになり、おかしな気がします。伊東家軍勢による宮崎城攻めも黒田孝高の指示によるものだというのが通説ですが、あくまでこういう捉え方は『日向記』収載の黒田孝高書状写の記述に基づくことであり、白峰氏の指摘通り、孝高にそういう権限はなく、その孝高書状写の記述内容が疑わしいとなってくると、全く話が変わってきます。
さらに「於様子者岡田三郎四郎所ヨリ可申候」という箇所について、次のように指摘されています。
「(今後の)状況については岡田三郎四郎のところより(伊東祐慶に)申し入れる予定としている。しかし、黒田家の慶長分限帳に岡田三郎四郎の名前はない。その点は不可解である。ちなみに、宮崎城攻略の際に、黒田孝高から遣わされた検使の宮川伴左衛門尉についても黒田家の慶長分限帳に名前はない。よって、岡田三郎四郎、宮川伴左衛門尉は伊東家側で偽作された架空の人物である可能性が高い」と。
黒田孝高書状写を本物らしく見せるために黒田家の家臣の名前も偽作しているとするなら、相当大がかりな伊東家挙げての偽作だったという気がします。すべては私的な宮崎城攻めを正当化するためだったと言えば、納得できます。
関ヶ原の戦いで三成ら新たな豊臣公儀側についた家々は、徳川の世を生き残るために、戦いを起こして家康に刃向かったのは逆臣の三成にそそのかされたからであり、すべての罪を三成にかぶせ、三成を悪人に仕立て上げました。大名家の家譜や書物にもそういうことが記されましたし、編纂史料もそういう見方で描かれました。徳川幕府の検閲が入っていましたから、そう描かざるをえなかったわけですが、それぞれの藩の保身術でもありました。「『日向記』収載の黒田孝高書状写」の中でも、伊東祐兵は家康弾劾状である「内府ちかひの条々」が出された直後から伊東祐兵は家康に味方していたことや、宮崎城攻めは、孝高の承認を得て行ったものであるということなどが記されていますが、そういう書状写を偽作してまで家康に刃向かっていないことを記録として残しておく必要があったのでしょう。
この記事へのコメント