石田三成の実像3621 中井俊一郎氏の「知られざる三成と家康 慶長3年秋、手を携えた両雄の五ヶ月間」11 泗川の戦い
中井俊一郎氏の「知られざる三成と家康 慶長3年秋、手を携えた両雄の五ヶ月間」(Kindle)の中で、島津義弘が名を上げた泗川の戦いの勝利について史料に基づいて詳述されています。
まず、「泗川方面の日本側拠点としては、元々朝鮮の城としてあった泗川古城と、島津勢が新たに海岸沿いに築いた泗川新城がある」が、「泗川に入った明軍は、まず泗川古城の攻略に入った。ここで戦うのは不利と見た島津勢は早々に城を脱出、古城は9月末に陥落した」と記されています。
そして、10月1日、泗川新城で、島津勢と明・朝鮮軍との間で泗川の戦いが起こるわけですが、この戦いの様子について、10月12日付の島津家家臣・大嶋忠泰書状などが挙げられ、次のように述べられています。
「明・朝鮮軍20万(注・この数字には誇張があると思われる)が泗川新城に押し寄せてきた。島津側は講話の話も出ているので、攻撃を控えていたところ、10月1日朝になり明・朝鮮軍が攻撃を仕掛けてきた。
島津側は、最初は城に籠って防戦していたが、昼過ぎになり、逆にこちらから打って出て明・朝鮮側を切り崩し、3万の首級をあげる大勝利を得た」と。
「3万の首級をあげ」というのも誇張だと思われますが、島津勢が大勝利したのは確かでしょう。この時の軍勢の数については、中野等氏の「文禄・慶長の役」(吉川弘文館)の中で、「明・朝鮮軍が多く見積もって4、5万であるのに対し、島津勢はわずかに数千というところであろう」と推定されています。
中野氏の同書では、泗川新城について、「三面が海に臨み、海水が自然の壕をなすと同時に運輸の便を備えていた」と記されています。さらに島津の作戦、及び戦いの状況については次のように述べられています。
「あくまで要害たる泗川新城に敵を引き付け、これを迎え撃つ作戦だったのである。はたして島津勢の守りは固く、火器を巧みに用いる反撃によって、攻城軍は逆に薬発を生じるなど被害と混乱を拡大させていった。義弘は時をみて城から討って出ることを命じるが、突攻の命を待ちかねていた城方の将兵は先を競って城門から突撃を開始したため、まったく城門が開く遑(いとま)すらなかったという。この故事はのちに『朝鮮の半扉』として伝えられ、島津勢の奮戦ぶりを示す口碑となる。城外の戦いでは、血気の忠恒や家老島津忠長はもとより、大将たる義弘みずからも敵を四人まで切り倒すという奮戦であった」などと。
泗川新城跡は、22年前にオンライン三成会の人々と訪ねたことがあります。ちょうど発掘調査している最中でしたが、小高い丘といった感じであり、樹木の間から海を望むことができました。ところどころに石垣が残っており、九州式の縄張りがうかがえました。ここで激戦が行われたと思うと感慨深いものがありました。
まず、「泗川方面の日本側拠点としては、元々朝鮮の城としてあった泗川古城と、島津勢が新たに海岸沿いに築いた泗川新城がある」が、「泗川に入った明軍は、まず泗川古城の攻略に入った。ここで戦うのは不利と見た島津勢は早々に城を脱出、古城は9月末に陥落した」と記されています。
そして、10月1日、泗川新城で、島津勢と明・朝鮮軍との間で泗川の戦いが起こるわけですが、この戦いの様子について、10月12日付の島津家家臣・大嶋忠泰書状などが挙げられ、次のように述べられています。
「明・朝鮮軍20万(注・この数字には誇張があると思われる)が泗川新城に押し寄せてきた。島津側は講話の話も出ているので、攻撃を控えていたところ、10月1日朝になり明・朝鮮軍が攻撃を仕掛けてきた。
島津側は、最初は城に籠って防戦していたが、昼過ぎになり、逆にこちらから打って出て明・朝鮮側を切り崩し、3万の首級をあげる大勝利を得た」と。
「3万の首級をあげ」というのも誇張だと思われますが、島津勢が大勝利したのは確かでしょう。この時の軍勢の数については、中野等氏の「文禄・慶長の役」(吉川弘文館)の中で、「明・朝鮮軍が多く見積もって4、5万であるのに対し、島津勢はわずかに数千というところであろう」と推定されています。
中野氏の同書では、泗川新城について、「三面が海に臨み、海水が自然の壕をなすと同時に運輸の便を備えていた」と記されています。さらに島津の作戦、及び戦いの状況については次のように述べられています。
「あくまで要害たる泗川新城に敵を引き付け、これを迎え撃つ作戦だったのである。はたして島津勢の守りは固く、火器を巧みに用いる反撃によって、攻城軍は逆に薬発を生じるなど被害と混乱を拡大させていった。義弘は時をみて城から討って出ることを命じるが、突攻の命を待ちかねていた城方の将兵は先を競って城門から突撃を開始したため、まったく城門が開く遑(いとま)すらなかったという。この故事はのちに『朝鮮の半扉』として伝えられ、島津勢の奮戦ぶりを示す口碑となる。城外の戦いでは、血気の忠恒や家老島津忠長はもとより、大将たる義弘みずからも敵を四人まで切り倒すという奮戦であった」などと。
泗川新城跡は、22年前にオンライン三成会の人々と訪ねたことがあります。ちょうど発掘調査している最中でしたが、小高い丘といった感じであり、樹木の間から海を望むことができました。ところどころに石垣が残っており、九州式の縄張りがうかがえました。ここで激戦が行われたと思うと感慨深いものがありました。
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