石田三成の実像3612 毛利輝元書状(『厚狭毛利家文書』46号文書)をめぐって 隠居中の三成は書状や使者を送れなかったのか? 

 白峰旬氏の「慶長4年閏3月の反石田三成訴訟騒動に関連する毛利輝元書状(『厚狭毛利家文書』)の解釈について」(2019年発行『別府大学大学院紀要』第21号所収)の中で、光成準治氏の「関ヶ原前夜」(NHK出版)で取り上げられている「厚狭毛利家文書」の六通の毛利輝元書状のうち、光成氏がA文書(46号文書)と呼んでいる書状が、反石田三成訴訟騒動があった慶長4年閏3月のものではなく、翌年の6月上旬の家康による上杉攻め直前の時のものだと推測されています。この書状について、鳥越九郎氏が拙ブログのコメントで、やはり光成氏の見解通りではないかというご意見をいただき、その根拠の一つとして、次のような点が挙げられています。
「三成よりの使者にて小西、寺沢が輝元のもとに来たとありますが隠居中の三成にそんなことが可能でしょうか、そもそも関ケ原では寺沢は東軍です」と。
 確かに、三成は隠居中の身の上であり、普通書状や使者は送れないという指摘は当を得ています。
 三成祭の際に行われた外岡慎一郎氏の講演会「豊臣秀吉死後の政局と石田三成の『選択』」の中で、三成引退後の慶長4年8月頃のものと推定される三成宛西笑承兌書状案の中が取り上げられ、次のように現代語訳されています。
 「都合よき折り合いを得て、お手紙を差し上げます。その後は音信不通となりましたこと、申し訳なく思います。正澄殿とはしばしばお話しする機会もあるのですが、(三成に)書状を届けたいと正澄殿にお願いしても、ご法度であるからできないというお返事で、そのまま時を過ごしております。大変残念に思います。(三成の)上洛の機会をお待ちし(その折お話しできると期待して)、今はこまごまと申し上げることを控えます。恐々謹言」と。
 この書状から見る限り、隠退していた三成に書状を出すのもはばかられ、三成も書状を送れるような状態でなかったことがわかります。しかし、外岡氏も言及されていたように、三成の兄の正澄は豊臣政権内にいて活動を継続しましたし、三成の嫡男の重家も政権に出仕していました。白峰氏は三成の引退は永久的なものではなく、将来の復帰を残すものであり、それだから翌年、家康による会津攻めの際、奉行に復帰できたと指摘されています。
 慶長4年8月頃の段階では、三成はなかなか連絡ができない状態でしたが、家康が前田利長を屈服させようとした時に、利長を牽制するために、家康は大谷吉継と三成に出兵を要請し、三成らはそれに応じています。普通隠居している三成にそういうことを命じないものですが、家康が三成を信頼していた証拠かもしれず、限定的ながら書状や使者のやりとりも少しは認められるようになった可能性もあります。それについては今後検討する余地がありますが、翌年、家康が上杉攻めを強行することを決定するに至って、反家康の動きが活発になり、三成も密かに書状や使者のやりとりをするようになったのではないでしょうか。6月頃に水面下の動きが始まったと考えなければ、通説で言われる7月10日頃の三成挙兵から17日に三奉行によって「内府ちかひの条々」と檄文が出され、同日に輝元が大坂に入城するという、一連の素早い動きの説明がつかない気がします。

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