佐藤座深氏の歴史小説「仰瞻」2 秋田藩の久保田城の地下にキリスト教の聖堂があったという設定 (追記)人吉城の相良清兵衛の屋敷の地下室・久保田城の清正、三成ゆかりの手水鉢
佐藤座深氏の歴史小説「仰瞻(ぎょうせん)」の中では、秋田藩主の佐竹義宣の居城である久保田城の地下の洞窟に、キリスト教の聖堂があったという設定になっています。これはフィクションですが、実際に久保田城跡からマリア像や金色のメダイが発見されていること、佐竹義宣の側室にキリシタンの女性がいたということ(小説には書かれていませんが、キリスト教追放令が秋田藩に出された後、彼女は逃れて京都に移り住んだということを佐藤氏から教えていただきました)から、城内の地下に密かに聖堂が造られていた可能性はあるように思われます。義宣は当初キリシタンに寛容でしたが、幕府の命によって、キリシタン追放令を藩内に出さざるをえなかったと思われます。義宣は三成と親密であり、三成もキリシタンに理解を示し、二十六聖人殉教事件の際も自分の判断で犠牲者の数をなるべく減らそうと尽力しています。
これで思い出すのが、相良氏の居城であった人吉城の、家老であった相良清兵衛の屋敷に地下室があり、宗教施設ではなかったかという見解が出されていることです。隠れキリシタンの施設ではなかったかという説がありましたが、最近、ユダヤ教の沐浴施設であったという新たな見解も出されています。
相良氏は関ヶ原の戦いの際、三成ら豊臣公儀方に付いて大垣城の留守居役になったものの、敗戦の報を受けて、高橋元種らと共に味方を裏切り、熊谷直盛・垣見一直らを殺害し、開城させました。その時、相良氏に裏切りを促したのが清兵衛だとされていますが、相良氏が裏切りの首謀者を清兵衛に仕立て上げた可能性もあると思っています。清兵衛は後に相良氏から追放され、津軽に移り住んでいます。相良氏は三成や大垣城で殺害した熊谷・垣見らの供養塔を建てて彼らの菩提を弔っています。この地下室は6年前、オンライン三成会の人々と訪ねたことがありますし、拙ブログでも取り上げました。



秋田の久保田城跡(今は千秋公園になっています)も佐藤氏の案内で、7年前にオンライン三成会の人々と訪ねたことがあり、これもその時に拙ブログで紹介しました。千秋公園にある茶室の宣庵には、三成ゆかりの手水鉢があり、ここも訪れました。オンライン三成会編の「三成伝説」 (サンライズ出版)でも、この手水鉢のことが紹介されています。朝鮮出兵の際、加藤清正の家臣が持ち帰り、秀吉に献上しましたが、その後、三成の計らいで義宣にもたされたものだと言われています。
これで思い出すのが、相良氏の居城であった人吉城の、家老であった相良清兵衛の屋敷に地下室があり、宗教施設ではなかったかという見解が出されていることです。隠れキリシタンの施設ではなかったかという説がありましたが、最近、ユダヤ教の沐浴施設であったという新たな見解も出されています。
相良氏は関ヶ原の戦いの際、三成ら豊臣公儀方に付いて大垣城の留守居役になったものの、敗戦の報を受けて、高橋元種らと共に味方を裏切り、熊谷直盛・垣見一直らを殺害し、開城させました。その時、相良氏に裏切りを促したのが清兵衛だとされていますが、相良氏が裏切りの首謀者を清兵衛に仕立て上げた可能性もあると思っています。清兵衛は後に相良氏から追放され、津軽に移り住んでいます。相良氏は三成や大垣城で殺害した熊谷・垣見らの供養塔を建てて彼らの菩提を弔っています。この地下室は6年前、オンライン三成会の人々と訪ねたことがありますし、拙ブログでも取り上げました。
秋田の久保田城跡(今は千秋公園になっています)も佐藤氏の案内で、7年前にオンライン三成会の人々と訪ねたことがあり、これもその時に拙ブログで紹介しました。千秋公園にある茶室の宣庵には、三成ゆかりの手水鉢があり、ここも訪れました。オンライン三成会編の「三成伝説」 (サンライズ出版)でも、この手水鉢のことが紹介されています。朝鮮出兵の際、加藤清正の家臣が持ち帰り、秀吉に献上しましたが、その後、三成の計らいで義宣にもたされたものだと言われています。
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