自作小説「守護神」 あとがき2 わずか二日足らずの出来事になっているのは、ドストエフスキーの影響

 こういう経緯がありますから、特にこの作品には愛着があります。ずっと手元に置いたままだったのを、昨年、同人誌「茅渟の海」が刊行されたのを機に、連載を開始し、それが完了しました。松本芳郎さんの勧めもあって、今回一冊の本にまとめることにしたのです。
 二十数年も前の作品ですから、随分、時代がかっています。舞台は京都ですが、三条から出町柳までまだ京阪電車が走っていませんし、共通一次試験が行なわれていた時代です。音楽はレコードですし、過激派という言葉も出て来ます。
 この小説はわずか二日足らずの出来事になっていますが、これは多分にドストエフスキーの影響です。彼の小説は「カラマーゾフの兄弟」にしろ「罪と罰」にしろ、わずかな日々の中で壮大なドラマが展開してゆくという構図になっています。そういう小説を私も書きたかったのですが、「守護神」は壮大というわけにはいかないものの、短い日々の出来事という点は貫くことができ、満足しています。登場人物同士がやたら議論をして、その点が煩らわしいとお思いの方も多いでしょうが、これもドストエフスキーの影響と言えますし、当時の学生たちの議論好きなのを反映しているとも言えます。
 この小説を書いた後、いつでしたか、ラジオで「お守り」という作品が朗読されていました。作者は誰か覚えていません。その作品で主人公は「お守り」としてダイナマイトを手元に置いていました。同じようなことを考えつく人もいるのだなあと、その時は思いましたが、考えてみれば、自分の作品も含めてそれほど斬新な発想でもないような気がします。
 島津とユキの心中場面は、渡辺淳一氏の「失楽園」になんだか似た点がありますが、むろん、真似したわけでなく、書いたのは私の方が古いのです。しかし、こういう究極の願望も人間の心の奥底にはあるのかもしれません。もっとも、私自身、この心中場面はリアリティがないなあと自己批判していますが。
 この小説はあくまでフィクションです。日本には伝統的に「私小説」というものがあり、小説とは自分の体験や事実を書くもので、そこにこそリアリティがあると考えられてきましたし、今でもその影響から抜け切れていないところがあります。日本人は小説に書かれていることをすぐ事実と考えてしまうのです。むろん、登場人物に作者の姿が反映するところは当然出て来るでしょうが、イコールではないし、またそうあってはいけないと思います。外国の文学はフィクションであり、作家もそのことをよく心得て作品を書いています。今や日本の作家の大半は「私小説」という枠から脱皮しているようですが、一部の作家にその傾向があり、読者も「私小説」という概念にとらわれている人が少なくありません。虚構をいかに真実らしく見せるかが、小説家の腕前であり、その点で、この小説は成功しているとは言えませんが、虚構の中の真実を探り楽しむのが、小説を読む醍醐味であると思います。私は今まで大小取り混ぜて十数編の小説を書いてきましたが、いずれも空想の産物であって虚構です。
 最後になりましたが、この本の刊行に協力いただきました松本芳郎さん、「茅渟の海」の同人の方々に厚くお礼申し上げます。
 2003年3月23日   

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