石田三成の実像3455 中井均氏と太田浩司氏の対談「関ヶ原合戦をめぐる城郭」2 秀吉や三成らが築いた新しい社会・経済システムを、家康が拝借・正則と三成の不仲説は本当か? 清洲城の石垣
1月22日、長浜の虎姫で行われた中井均氏と太田浩司氏による対談「関ヶ原合戦をめぐる城郭」ですが、太田氏は大河ドラマ「どうする家康」のせいで、家康が長い太平の世を築いたことがしきりに持ち上げられているものの、全国での戦争を終わらせたのは秀吉であり、秀吉や三成らが築いた新しい社会・経済システムを、家康が拝借したという持論を太田氏が改めて述べておられましたが、それはもっと強調されていいことだと感じました。全国を統一して戦いを禁止するという惣無事体制を秀吉が築きましたが、秀吉の死後、家康が上杉氏に対する会津攻めを強行したことによって、惣無事体制は崩壊しました。それに反発した毛利・宇喜多・三成を含めた四奉行が新たな豊臣公儀体制を作って、家康に対抗しましたが、家康が関ヶ原の戦いに勝利して、結局新たな天下人になったわけですから、家康は戦いを復活させることによって、皮肉なことに.太平な世を築いたことになります。豊臣氏を滅ぼしてしまったのも同じです。むろん、秀吉も国内の戦はなくしたものの、朝鮮半島へは侵攻しましたから、惣無事体制といっても、国内限定のものであり、結局、この朝鮮侵略が豊臣政権の崩壊につながりました。哀れなのは、家康に歯向かった三成であり、江戸時代を通じて、奸臣扱いされ、秀吉政権下のさまざまな悪行は三成の陰謀によるとされてしまいました。三成らが中心となって、新しい社会・経済システムを築いたという点は全く無視されました。残念なことに、江戸時代に作られた陰謀家三成のイメージは、明治時代になってからも改められることはなく、現在でもそういう見方をする者が跡を絶ちません。
さて、対談では、まず清洲城のことが取り上げられていました。関ヶ原の戦いの時の城主は福島正則でしたが、その前は秀吉の甥の秀次が城主であり、清洲城は尾張で一番重要視されていた城だったと説明されていました。それだから、三成は8月6日の時点で、清洲城の正則を取り込んで、尾張国を最前線として三河国との国境あたりで家康と戦おうという戦略を立てたわけです。そのことは、同日付の真田昌幸宛三成書状からわかりますが、太田氏はこういう点から見ても、三成と正則は仲が悪かったという従来からの見方は正しいのかという疑問を示しておられました。その疑問は私もかねてより持っていたことで、拙ブログでもたびたび述べてきました。結局、三成の取り込みは失敗しますが、そこに三成の甘さがあったとよく言われるものの、正則なら豊臣政権側に付いてくれるという見通しがあったのではないでしょうか。慶長の役で、各武将の不満が奉行衆に向かいますが、正則は慶長の役の際は、渡海していません。石田三成らに対する訴訟騒動の際は、正則は三成らを弾劾する側に立っていますが、正則が三成に不満を持つ原因がよくわかりません。正則が奉行衆の政権運営に反発していたのでしょうか。三成が奉行職を解かれ、引退することで一応事態は収拾していますが、正則はそれでは手ぬるいと思っていたのでしょうか。しかし、三成としては、新しい豊臣公儀体制側に正則も取り込めるのではないかと見ていたことからみて、三成・正則不仲説は根本的な見直しが必要ではないかと思っています。
対談の中で、中井氏は清洲城の発掘調査によって、石垣が築かれており、それは雑賀衆によるものだということがわかったという興味深い話をしておられました。雑賀衆はむろん、紀州の雑賀ですが、清須と雑賀のつながりについては、今後検討すべき課題だと思われます。
さて、対談では、まず清洲城のことが取り上げられていました。関ヶ原の戦いの時の城主は福島正則でしたが、その前は秀吉の甥の秀次が城主であり、清洲城は尾張で一番重要視されていた城だったと説明されていました。それだから、三成は8月6日の時点で、清洲城の正則を取り込んで、尾張国を最前線として三河国との国境あたりで家康と戦おうという戦略を立てたわけです。そのことは、同日付の真田昌幸宛三成書状からわかりますが、太田氏はこういう点から見ても、三成と正則は仲が悪かったという従来からの見方は正しいのかという疑問を示しておられました。その疑問は私もかねてより持っていたことで、拙ブログでもたびたび述べてきました。結局、三成の取り込みは失敗しますが、そこに三成の甘さがあったとよく言われるものの、正則なら豊臣政権側に付いてくれるという見通しがあったのではないでしょうか。慶長の役で、各武将の不満が奉行衆に向かいますが、正則は慶長の役の際は、渡海していません。石田三成らに対する訴訟騒動の際は、正則は三成らを弾劾する側に立っていますが、正則が三成に不満を持つ原因がよくわかりません。正則が奉行衆の政権運営に反発していたのでしょうか。三成が奉行職を解かれ、引退することで一応事態は収拾していますが、正則はそれでは手ぬるいと思っていたのでしょうか。しかし、三成としては、新しい豊臣公儀体制側に正則も取り込めるのではないかと見ていたことからみて、三成・正則不仲説は根本的な見直しが必要ではないかと思っています。
対談の中で、中井氏は清洲城の発掘調査によって、石垣が築かれており、それは雑賀衆によるものだということがわかったという興味深い話をしておられました。雑賀衆はむろん、紀州の雑賀ですが、清須と雑賀のつながりについては、今後検討すべき課題だと思われます。
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