石田三成の実像3456 京都探訪404 三成の菩提寺である大徳寺三玄院の初公開1 大徳寺と三成の関係・利休事件の画策者ではない
京都にかなりの雪が降った翌日の26日、雪が至るところに残っている中、思い切って大徳寺の三玄院の特別公開に行ってきました。石田三成の墓所があるお寺ですが、今まではずっと拝観謝絶だったので、一度も行ったことはありませんでした。もっとも、今回の公開対象は本堂や庭園、各部屋の襖絵などに限られているため、三成の墓所にお参りすることはできませんでした。しかも、公開されているところは、すべて写真撮影が禁止されているため、拝観入口までのところを撮ることができる程度でした。それでも、三成が浅野幸長、森忠政と共に、参禅の師である春屋宗園和尚を開基として建立したお寺であり、処刑された三成の遺骸が埋葬されているところだけに、やっと訪ねることが出来たという深い感慨を覚えました。雪景色も美しく、余計格別な思いがしましたし、三成の息づかいさえ感じられるほどで、拝観できるところを1時間近く何度も回りました。
大徳寺の山門金毛閣の雪景色も新鮮で風情がありましたが、山門から、石田三成の墓所がある三玄院まで百メートルも離れていません。大徳寺の山門金毛閣に置いた利休の木像が不遜であるという理由などで、利休が成敗されたということがよく言われ、それを画策したのが三成だという説がいまだに根強くあるものの、もしそうなら、三成と大徳寺の関係は悪くなったはずですが、その形跡はありません。三成の母の葬儀が行われたのも三玄院においてですし、関ヶ原の戦いで敗れた石田三成が処刑された後、その遺骸を引き取って大徳寺の三玄院に手厚く葬ったのは、春屋宗園和尚の弟子達でした。さらに利休が成敗された時、利休の孫の宗旦は三玄院で修行していました。三成の参禅の師である宗園和尚に利休も帰依していますし、利休の死の四ヶ月前には、利休の茶会に三成は招かれており、その一ヶ月後には三成の兄の正澄が招かれています。第一、利休の木像が問題となった時には、三成は上方におらず、東北の一揆の鎮圧に向かっており、戻ってきたのは2月中旬頃です。その後、三成も事件の処理に関わざるをえなかったのかもしれませんが、三成のこういう行動から見て、自ら事件を画策したとは到底考えられません。
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