番組 「決戦!関ヶ原Ⅱ 大名たちの野望」のご案内・石田三成の実像3454 白峰旬氏「メッケル少佐の関ヶ原視察とメッケル伝説ー司馬遼太郎氏の発言を検証するー」12 メッケルが「地理実査」のため関ヶ原に行ったことを当時の新聞記事で確認4
白峰旬氏より、ご自身がインタビューを受けられた、次のような関ヶ原関連番組が放送されるとのご案内をいただきましたので、お知らせ致します。どのような内容の番組になるのか、楽しみです。
「決戦!関ヶ原Ⅱ 大名たちの野望」
⇒HP:https://www.nhk.jp/p/ts/M7KR1ZY4MN/
⇒本放送:2023年2月4日(土)21:00-22:59(BSプレミアム、119分)
⇒再放送:2023年2月19日(日)12:00-13:59(BSプレミアム、119分)
※放送日程は急遽変更になる可能性もございます。その際は改めてご連絡します。
さて、白峰氏の「メッケル少佐の関ヶ原視察とメッケル伝説ー司馬遼太郎氏の発言を検証するー」(別府大学史学研究会「史学叢書」第52号)の中で、白峰氏が確認された明治 19 年 1 月 13 日付の岐阜日日新聞のメッケル大佐に関する記事についての白峰氏の考察されていますが、その続きです。白峰氏はさらに次のように指摘されています。
「関ヶ原の戦いに関するメッケルからの諮問は、前後の文脈からすると、大垣においておこなわれたものである(関ヶ原ではない)点は注意する必要がある」。
メッケルが関ヶ原の戦いについての諮問をしたのは、合戦の当地とされる関ヶ原においてと考えがちですが、そうではなく、大垣においてだったわけです。さらに白峰氏の考察は次のように続きます。
「『舊城郭』とは大垣城天守(後に昭和 20 年に空襲で焼失)と考えられるので、メッケルは大垣城天守に上って(多分、最上階から)、『中山道、東海道、美濃廻り等の道程』、『関東方の進撃せし線路』(=徳川家康方軍勢の進撃ルート)、『岐阜より大垣、及赤坂、梅谷越』を遠望し、さらに『西軍敗走に属する線路』(=石田三成方軍勢の敗走ルート)、『淡海より津田驛を経て関ヶ原へ達する順路』(『淡海』は『近江』という意味)、『家康の陣取りし赤坂勝山等』(家康が最初に陣を構えた岡山本陣跡)を視案した、としている。この場合の『視案』とは遠望して思案した、という意味であろう。
ここで注意したいのは、メッケルが遠望した場所として、徳川家康方軍勢と石田三成方軍勢の決戦地がない点である。つまり、明治19 年の時点では両軍の決戦地に関する現地での比定地がなかった可能性も考えられ、そうなると、両軍の決戦がおこなわれておらず、徳川家康方軍勢が進撃し、石田三成方軍勢が敗走する、というように、最初から家康方軍勢による追撃戦であったという伝承が地元ではされていたのかもしれない。
このように、メッケルは大垣城天守最上階から俯瞰したので、明治 19 年当時は現在以上に周辺の地形等がよく把握できたと思われる。
このようにメッケルが 6 名を引き連れて大垣城天守の最上階に上り、そこから説明を受けながら関ヶ原の戦いに関係する各地を遠望した光景をイメージすると壮観な印象を受ける」と。
三成は関ヶ原の戦いの前日の9月14日まで、一ヶ月余りにわたって大垣城を拠点にしていましたから、三成もメッケルと同じように、天守から美濃一帯を日々眺めて戦略を立てていたのかもしれません。家康方軍勢が、岐阜城を落として、赤坂に布陣してからは、そちらの方を専ら監視していたに違いありません。しかし、メッテルのように、三成は関ヶ原の前日まで、関ヶ原方面で戦うことは想定していなかったという捉え方もありますから、その方面は見ていなかったという可能性はあります。しかし、三成方はさまざまな場合を念頭に置いたはずですから、関ヶ原方面で戦うことも選択肢の一つとして考えていたのではないでしょうか。
上記の白峰氏の指摘の中で「注意したいのは、メッケルが遠望した場所として、徳川家康方軍勢と石田三成方軍勢の決戦地がない点である」という点は重要なので、改めて後述します。
「決戦!関ヶ原Ⅱ 大名たちの野望」
⇒HP:https://www.nhk.jp/p/ts/M7KR1ZY4MN/
⇒本放送:2023年2月4日(土)21:00-22:59(BSプレミアム、119分)
⇒再放送:2023年2月19日(日)12:00-13:59(BSプレミアム、119分)
※放送日程は急遽変更になる可能性もございます。その際は改めてご連絡します。
さて、白峰氏の「メッケル少佐の関ヶ原視察とメッケル伝説ー司馬遼太郎氏の発言を検証するー」(別府大学史学研究会「史学叢書」第52号)の中で、白峰氏が確認された明治 19 年 1 月 13 日付の岐阜日日新聞のメッケル大佐に関する記事についての白峰氏の考察されていますが、その続きです。白峰氏はさらに次のように指摘されています。
「関ヶ原の戦いに関するメッケルからの諮問は、前後の文脈からすると、大垣においておこなわれたものである(関ヶ原ではない)点は注意する必要がある」。
メッケルが関ヶ原の戦いについての諮問をしたのは、合戦の当地とされる関ヶ原においてと考えがちですが、そうではなく、大垣においてだったわけです。さらに白峰氏の考察は次のように続きます。
「『舊城郭』とは大垣城天守(後に昭和 20 年に空襲で焼失)と考えられるので、メッケルは大垣城天守に上って(多分、最上階から)、『中山道、東海道、美濃廻り等の道程』、『関東方の進撃せし線路』(=徳川家康方軍勢の進撃ルート)、『岐阜より大垣、及赤坂、梅谷越』を遠望し、さらに『西軍敗走に属する線路』(=石田三成方軍勢の敗走ルート)、『淡海より津田驛を経て関ヶ原へ達する順路』(『淡海』は『近江』という意味)、『家康の陣取りし赤坂勝山等』(家康が最初に陣を構えた岡山本陣跡)を視案した、としている。この場合の『視案』とは遠望して思案した、という意味であろう。
ここで注意したいのは、メッケルが遠望した場所として、徳川家康方軍勢と石田三成方軍勢の決戦地がない点である。つまり、明治19 年の時点では両軍の決戦地に関する現地での比定地がなかった可能性も考えられ、そうなると、両軍の決戦がおこなわれておらず、徳川家康方軍勢が進撃し、石田三成方軍勢が敗走する、というように、最初から家康方軍勢による追撃戦であったという伝承が地元ではされていたのかもしれない。
このように、メッケルは大垣城天守最上階から俯瞰したので、明治 19 年当時は現在以上に周辺の地形等がよく把握できたと思われる。
このようにメッケルが 6 名を引き連れて大垣城天守の最上階に上り、そこから説明を受けながら関ヶ原の戦いに関係する各地を遠望した光景をイメージすると壮観な印象を受ける」と。
三成は関ヶ原の戦いの前日の9月14日まで、一ヶ月余りにわたって大垣城を拠点にしていましたから、三成もメッケルと同じように、天守から美濃一帯を日々眺めて戦略を立てていたのかもしれません。家康方軍勢が、岐阜城を落として、赤坂に布陣してからは、そちらの方を専ら監視していたに違いありません。しかし、メッテルのように、三成は関ヶ原の前日まで、関ヶ原方面で戦うことは想定していなかったという捉え方もありますから、その方面は見ていなかったという可能性はあります。しかし、三成方はさまざまな場合を念頭に置いたはずですから、関ヶ原方面で戦うことも選択肢の一つとして考えていたのではないでしょうか。
上記の白峰氏の指摘の中で「注意したいのは、メッケルが遠望した場所として、徳川家康方軍勢と石田三成方軍勢の決戦地がない点である」という点は重要なので、改めて後述します。
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