石田三成の実像3453 白峰旬氏「メッケル少佐の関ヶ原視察とメッケル伝説ー司馬遼太郎氏の発言を検証するー」11 メッケルが「地理実査」のため関ヶ原に行ったことを当時の新聞記事で確認3
白峰旬氏の「メッケル少佐の関ヶ原視察とメッケル伝説ー司馬遼太郎氏の発言を検証するー」(別府大学史学研究会「史学叢書」第52号)の中で、白峰氏が確認された明治 19 年 1 月 13 日付の岐阜日日新聞のメッケル大佐に関する記事についての白峰氏の考察されていますが、その続きです。白峰氏はさらに次のように指摘されています。
「メッケルは 6 名(名古屋鎮台の陸軍大尉 1 名を含む)を引き連れて岐阜県大垣に到着したことがわかるので、冬季休暇中の私的な旅行とはいえ、相当な VIP 待遇だったことになり、またそれだけの有名人だったということなのであろう」
「『慶長の役、東西両軍交戦に関する事蹟沿革等を尋ね』とは、関ヶ原の戦いに関係する史跡とその歴史的経緯などについてメッケルが尋ねた、という意味であろう。関ヶ原の地元である岐阜県の当時の新聞(岐阜日日新聞)で、関ヶ原の戦いについて『慶長の役』と記載している点は興味深い。地元の岐阜県では、当時(明治 19 年当時)、関ヶ原の戦いについて『慶長の役』と呼称していたのであろうか」。
関ヶ原の戦いを「慶長の役」と記されていることが、興味を引かれます。関ヶ原の戦いの時は、全国規模で戦いが展開されていますから、関ヶ原方面の局地戦だけではなく、そういう意味では「慶長の役」という言い方の方がふさわしいと言えます。もっとも、「慶長の役」と言えば、朝鮮侵略を意味する「文禄・慶長の役」を連想してしまいますから、白峰氏は関ヶ原の戦いを含めた全国規模の争乱を「庚子争乱」と名付けられています。その方が誤解がなくて済みますし、関ヶ原の戦いがわずか半日で決したために、この戦いを過小評価する向きがありますが、実際は、三成らが家康に対して挙兵し、家康弾劾状である「内府ちかひの条々」を新たな豊臣公儀側が出し、それから関ヶ原の戦いに至る、豊臣公儀側、家康方軍勢双方の動きがあって、関ヶ原方面での戦いになるわけですが、関ヶ原の戦いの後も、各地で戦乱が続きましたから、争乱はある程度長い期間にわたって続きました。そういう経緯を把握した上で、関ヶ原の戦い前後のことを、広く「慶長の役」と称したのかもしれません。
白峰氏の考察は次のように続いています。
「関ヶ原の戦いに関係する史跡とその歴史的経緯などについてメッケルが尋ねた、ということは、メッケルが関ヶ原の戦いについて相当な関心を持っていたことがわかる」
「関ヶ原の戦い(『設役』は『該役』の誤植か?)についての『古記録、古図等』を取り寄せて種々その履歴等について諮問した、としているので、関ヶ原の戦いについて相当突っ込んだやり取りをしていたことになる。特に、『古記録、古図等』としている点は注目され、『古図』の中に江戸時代に流布した関ヶ原の戦いの布陣図などが含まれていたとすると、司馬発言A、司馬発言Bのルーツがこのあたりにあった可能性も考えられる。
なお、『古図』としているので、メッケルが見たのは、陸軍参謀本部が作成した関ヶ原の戦いに関する布陣図でなかったことは明白である」と。
われわれは今までメッケルが見ていた関ヶ原の戦いの布陣図は、日本史の教科書や歴史本によく掲載されているものだと思い込んできたきらいがありますが、これらの布陣図は参謀本部が作ったものですから、それがまだ出来上がっていなかった段階の、江戸時代に作られた「古図」で、メッケルが三成方の勝利を主張したという話は信憑性に欠ける気がします。
「メッケルは 6 名(名古屋鎮台の陸軍大尉 1 名を含む)を引き連れて岐阜県大垣に到着したことがわかるので、冬季休暇中の私的な旅行とはいえ、相当な VIP 待遇だったことになり、またそれだけの有名人だったということなのであろう」
「『慶長の役、東西両軍交戦に関する事蹟沿革等を尋ね』とは、関ヶ原の戦いに関係する史跡とその歴史的経緯などについてメッケルが尋ねた、という意味であろう。関ヶ原の地元である岐阜県の当時の新聞(岐阜日日新聞)で、関ヶ原の戦いについて『慶長の役』と記載している点は興味深い。地元の岐阜県では、当時(明治 19 年当時)、関ヶ原の戦いについて『慶長の役』と呼称していたのであろうか」。
関ヶ原の戦いを「慶長の役」と記されていることが、興味を引かれます。関ヶ原の戦いの時は、全国規模で戦いが展開されていますから、関ヶ原方面の局地戦だけではなく、そういう意味では「慶長の役」という言い方の方がふさわしいと言えます。もっとも、「慶長の役」と言えば、朝鮮侵略を意味する「文禄・慶長の役」を連想してしまいますから、白峰氏は関ヶ原の戦いを含めた全国規模の争乱を「庚子争乱」と名付けられています。その方が誤解がなくて済みますし、関ヶ原の戦いがわずか半日で決したために、この戦いを過小評価する向きがありますが、実際は、三成らが家康に対して挙兵し、家康弾劾状である「内府ちかひの条々」を新たな豊臣公儀側が出し、それから関ヶ原の戦いに至る、豊臣公儀側、家康方軍勢双方の動きがあって、関ヶ原方面での戦いになるわけですが、関ヶ原の戦いの後も、各地で戦乱が続きましたから、争乱はある程度長い期間にわたって続きました。そういう経緯を把握した上で、関ヶ原の戦い前後のことを、広く「慶長の役」と称したのかもしれません。
白峰氏の考察は次のように続いています。
「関ヶ原の戦いに関係する史跡とその歴史的経緯などについてメッケルが尋ねた、ということは、メッケルが関ヶ原の戦いについて相当な関心を持っていたことがわかる」
「関ヶ原の戦い(『設役』は『該役』の誤植か?)についての『古記録、古図等』を取り寄せて種々その履歴等について諮問した、としているので、関ヶ原の戦いについて相当突っ込んだやり取りをしていたことになる。特に、『古記録、古図等』としている点は注目され、『古図』の中に江戸時代に流布した関ヶ原の戦いの布陣図などが含まれていたとすると、司馬発言A、司馬発言Bのルーツがこのあたりにあった可能性も考えられる。
なお、『古図』としているので、メッケルが見たのは、陸軍参謀本部が作成した関ヶ原の戦いに関する布陣図でなかったことは明白である」と。
われわれは今までメッケルが見ていた関ヶ原の戦いの布陣図は、日本史の教科書や歴史本によく掲載されているものだと思い込んできたきらいがありますが、これらの布陣図は参謀本部が作ったものですから、それがまだ出来上がっていなかった段階の、江戸時代に作られた「古図」で、メッケルが三成方の勝利を主張したという話は信憑性に欠ける気がします。
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