奈良探訪 東大寺法華堂の秘仏執金剛神像と開山堂・良弁僧正坐像の特別拝観・「日本霊異記」の執金剛神像の話
大阪府立大手前高校で同僚だったT先生のお誘いで、昨年12月16日、東大寺法華堂の秘仏執金剛神像の特別拝観、及び開山堂と良弁僧正坐像の特別拝観に行ってきました。良弁忌の日にだけ見ることができるので、年に1回の特別なものです。

法華堂の前には、長蛇の列ができていました。コロナ禍のため、3年ぶりの公開ですから、無理ないところかもしれません。良弁は東大寺の前身である金鐘寺に住まいし、東大寺の創建に尽力し、東大寺の初代別当になりました。執金剛神像は、良弁の念持仏だったと言われています。「日本霊異記」にも、行者がこの神像を日夜拝んでいたので、神像のひざが光り、天皇のところまでその光が届いたため、天皇がこの行者を召して、願いを訊いたところ、出家したいと答えたので、天皇はそれを許可し、正式に「金鷲」という名になりました。それが良弁です。
執金剛神像の拝観は、20名ずつなので、中に入るまで時間がかかりましたし、厨子の中に安置されている執金剛神像を間近で拝めるのは5分だけでしたが、見応えがありました。厨子の中に安置されている執金剛神像は天平時代のものですが、秘仏なだけに、保存状態がよく、堂内の他の仏像に比べて、鮮やかな色が残っていました。金剛杵を振り上げてにらみつけるような表情が印象的でした。



開山堂の方は、待たずに入れました。
東大寺開山堂の良弁僧正坐像は平安時代に作られたものですが、威厳に満ちて凛とした存在感がありました。
「日本霊異記」の執金剛神像の話では、良弁は「金鷲」という名になっていますが、「鷲」という語が付いているのは、良弁が2歳の時に鷲にさらわれたという伝説が影響しているのではないかということが、中田祝夫氏による「日本霊異記」の「注」に記されています。
鷲にさらわれた良弁が引っかかったと言われる木が、現在、東大寺二月堂の前にある杉の木であり、良弁杉と名付けられています(今のは三代目)。もっとも、鷲にさらさわれたという話は、東大寺の諸書でもいろいろ内容が微妙に違っています。「日本霊異記」には、女の赤子が鷲にさらわれ、他国で育てられ、8年後に父親と再会を果たすという話が載っています。
法華堂の前には、長蛇の列ができていました。コロナ禍のため、3年ぶりの公開ですから、無理ないところかもしれません。良弁は東大寺の前身である金鐘寺に住まいし、東大寺の創建に尽力し、東大寺の初代別当になりました。執金剛神像は、良弁の念持仏だったと言われています。「日本霊異記」にも、行者がこの神像を日夜拝んでいたので、神像のひざが光り、天皇のところまでその光が届いたため、天皇がこの行者を召して、願いを訊いたところ、出家したいと答えたので、天皇はそれを許可し、正式に「金鷲」という名になりました。それが良弁です。
執金剛神像の拝観は、20名ずつなので、中に入るまで時間がかかりましたし、厨子の中に安置されている執金剛神像を間近で拝めるのは5分だけでしたが、見応えがありました。厨子の中に安置されている執金剛神像は天平時代のものですが、秘仏なだけに、保存状態がよく、堂内の他の仏像に比べて、鮮やかな色が残っていました。金剛杵を振り上げてにらみつけるような表情が印象的でした。

開山堂の方は、待たずに入れました。
東大寺開山堂の良弁僧正坐像は平安時代に作られたものですが、威厳に満ちて凛とした存在感がありました。
「日本霊異記」の執金剛神像の話では、良弁は「金鷲」という名になっていますが、「鷲」という語が付いているのは、良弁が2歳の時に鷲にさらわれたという伝説が影響しているのではないかということが、中田祝夫氏による「日本霊異記」の「注」に記されています。
鷲にさらわれた良弁が引っかかったと言われる木が、現在、東大寺二月堂の前にある杉の木であり、良弁杉と名付けられています(今のは三代目)。もっとも、鷲にさらさわれたという話は、東大寺の諸書でもいろいろ内容が微妙に違っています。「日本霊異記」には、女の赤子が鷲にさらわれ、他国で育てられ、8年後に父親と再会を果たすという話が載っています。
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