石田三成の実像3436 白峰旬氏の「スペインの世界戦略に挑戦する豊臣秀吉」9「秀次事件に関する記載」7 7月25日付針生民部太輔宛石田三成書状の「関白殿御逆意顕形」という記述

 白峰旬氏の論文「スペインの世界戦略に挑戦する豊臣秀吉ー『スペイン統治時代フィリピン総督日本関係文書』に記された豊臣秀吉、豊臣秀頼、徳川家康、徳川秀忠、徳川家光の時代に関する諸事項の記載についてー」の「秀次事件に関する記載」の中で、遠藤珠紀氏の「豊臣事件事件と金銭問題」の次のような指摘も取り上げられています。
 すなわち、「『(文禄4年)7月25日付針生民部太輔宛石田三成書状』に『関白殿御逆意顕形』と謀叛であることが明記されている」と。
 この指摘について、白峰氏の同書には、この三成書状の該当箇所をもう少し長く引用し、併せて次のような見解が示されています。
 すなわち、「『今度、関白殿御逆意顕形ニ付而、御腹被召、一味之面々悉相果、毛頭無異儀相済候』と記されている。この記載には『一味之面々』とあることから、秀次の謀反に同調した者が多く、秀次の謀反がかなり大規模であったことがわかる」と。
 このことを裏付ける、次の書状も取り上げられています。   
 すなわち、「『(文禄4年)9月8日付相良頼房宛安宅秀安書状』には『関白殿御逆意ニ付、御腹召候、御一味申面々、御成敗、或遠国へ流人ニ被遣、毛頭無異儀相済申候条』と記されている。この記載でも『御一味申面々』とあることから、同様の指摘ができる」と。
 針生は伊達氏の家臣ですが、この三成書状は矢野健太郎氏の「関白秀次の切腹」の中で取り合げられ、次のように現代語訳されています。
 「急ぎの書状を受け取り、本望に存じます。今度、関白秀次殿の御逆意が明らかになり、切腹なされ、一味の者どももことごとく果てられ、すべて問題なく決着いたしました。(後略)」と。
 この書状について、矢野氏の同書では次のように解説されています。
 「切腹から10日後、おそらく針生もしくは伊達家側からの『飛札』に応えたものであろう。これまでもこの書状の存在から『秀次の死後も、謀反の嫌疑は晴れていなかった』(堀越祐一氏『太閤秀吉と関白秀次』、山本博文氏・堀新氏・曽根勇二氏編『消された秀吉の真実』所収)と評価するのが一般的であったが、『秀次切腹』前の政権の意思が確定できた以上、『秀次切腹』後に激しさを増す『謀反』の吹聴は、『後付け』と評価するのが妥当である。秀吉の意に反した勝手な切腹こそ、秀次の『御逆意顕形』そのものだったともいえようか」と。
 秀吉は秀次に高野山に住まわせるつもりだったのに、秀次は秀吉の意に反して自分の潔白を証明するために切腹したので、秀吉や三成らは秀次に「謀反」の罪をかぶせて、事態の収拾をはかろうとしたというのが矢野氏の見解ですが、白峰氏や遠藤氏は、実際に秀次側に謀反を疑わせる動きがあったのではないかという見解を示されています。ただし、上記の2通の書状は、いずれも秀次が切腹した後に書かれたものですから、「関白殿御逆意」と記されており、どちらの見解も成り立つことになります。しかし、スペイン側の史料に基づいた白峰氏の指摘や、秀次側の金銭問題に注目した遠藤氏の指摘からすれば、実際に秀次側に謀反を疑わせる問題があったと考えられるのではないでしょうか。

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