旅行記317 高橋陽介氏の主催で大垣・関ヶ原をめぐる10 大垣の「四季の広場」 美濃路の飯沼慾斎屋敷跡、大垣宿本陣跡、問屋場跡

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 大垣の景色で一番気に入っているのは、水門川の「四季の広場」周辺です。このあたりは、京都アニメーション制作のアニメ映画「聲の形」でも描かれていましたが、滝のトンネルといい、水上ステージといい、美登鯛橋といい、時計台までが周囲と溶け合っている気がします。  
 10月22日、「奥の細道むすびの地」から「奥の細道むすびの記念館」、全昌寺を経て、水門川沿いに北へ歩き、四季の広場周辺を散策しました。その後、ホテルに戻るのに、美濃路を東に少し歩きました。大垣には何度も来ていますが、このあたりは初めてでした。
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 飯沼慾斎屋敷があったあたりに、薬木広場があり、たくさんの種類の薬木が植えられていました。飯沼慾斎は江戸時代後期の蘭方医で大垣で開業しました。本草学も究め、「本草図説」を刊行しました。広場には銅像が建っていますし、美濃路をはさんだ南側には屋敷跡碑が建っています(広場は北側)。飯沼慾斎の功績を、いろいろな薬木を植えることで道行く人に知らせているのが面白いと思いました。
 美濃路は江戸時代、中山道の垂井宿と東海道の宮宿を結ぶ街道でした。垂井を出て、大垣の城下を通り、墨俣を経て尾張に入り、熱田の宮宿まで続いていました。
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 私は飯沼慾斎屋敷跡から美濃路を東に歩き、大垣宿本陣跡、問屋場跡、本町道標などをたどっただけですが。途中、江戸時代当時の雰囲気をわずかに偲べる町並みもありました。
 関ヶ原の戦いの際、石田三成は大垣城に進出し、1ヶ月以上そこを拠点として、美濃攻略を進めました。それだけ、大垣が交通の要衝であり、美濃における大事な場所だったからであり、江戸時代、美濃路が整備され、大垣を通り道にしたのも当然だという気がします。朝鮮通信使やお茶壺道中もこの街道を通りましたし、朝鮮通信使はこの大垣宿に泊まっています。

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